プロフィール(長文)

水墨画家・柔道整復師・音楽家のDと申します。

 

ここでは僕の細かいプロフィールを紹介したいと思います。

長々と人生を振り返っているのでよろしくおつきあいください。

 

ちなみに「D」という名前は高校時代に

名前の頭文字をとって『Dさん』と

と呼ばれていたことが始まりです。

 

 

心を閉ざしていた子ども時代

 

 

僕が生まれたところは兵庫県の宝塚市。

小さいころの僕は友達と遊ぶことをあまり好まなかったです。

 

正確にはよっぽど気の合う人でないと遊んでても面白くなかったという感じです。

 

今ではだいぶ大人になったので誰とでも

すぐ仲良くなれるほどの人間に成長しました。笑

 

物心ついたころには近所の1つ年上のKくんと

よく川に魚やザリガニをとりにいったり、

森にセミやカブトムシをとりにいったりして

それが楽しくてしかたなかったですね。

 

Kくんとはすごく気が合ったので毎日のように2人で遊んでいました。

 

でもKくんが小学校に入学すると同時に2人で遊ぶことが少なくなり、

遊びに誘っても学校の友達と遊ぶからといって断られたこと多数。

 

それでもそのときはそんなもんかなーと思って、特に気にすることなく

ひとりで川に行ったり虫捕りしたりしてました。

この時期の僕は最強だったなと今では思います。

このころのそういう自然と戯れる遊びかたが

今の感性を磨く土台になったんだろうなーと思います。

 

Kくん以外の友達とはそういう遊びができなかったので

僕はひとりで行動することを好んでいました。

 

小学校に上がって友達に遊びに誘われても適当に「習い事あるから」

とかウソついてまでひとりで川に行ったり虫捕りに行ったりする始末。

 

ヒマと白い紙さえあれば絵を描いていたのもこのころですね。

ボヤーッと漫画家になりたいなぁなんて思ったりしてました。

 

 

そんな幼少期を楽しく過ごしていた僕に転機が訪れました。

 

転校によって安心できる場所がなくなった

 

 

それまでの僕は生まれた時からずっとその地域で育ったので

まわりの友達も幼稚園から一緒に小学校に上がった子どもばかりでした。

 

そんな環境で比較的まわりに馴染むことができてたので

仲間はずれにされたりすることなんかありえないという安心感がありました。

 

事実、どんなに僕が遊びに誘われて断ったとしてもまた誘ってくれてたし、

僕も気分が乗ったときは一緒に遊んでいたので。

 

そのままそこで大人になっていくんだろうと

タカをくくっていたら神さまがイタズラしてきました。

 

母親がとなりの伊丹市の

団地の抽選に当たったと言うのです。

 

僕は転校することになりました。

そのとき小学2年生の終わりごろ。

 

車に乗って学校から出発する僕をクラスのみんなが

見送ってくれたときの光景はいまだに忘れられません。

うれしいのとさみしいのが入り混じった複雑な気分でした。

 

このときは同じ兵庫県のとなりの伊丹市だったということと、

転校したクラスの担任の先生がめちゃくちゃ優しい先生だったので

転校生の僕をクラスのみんなで温かく迎えてくれるように盛り上げてくれました。

 

なのですんなりみんなの中に馴染むことができました。

まだ小学校の3年生だったので。

でもやっぱり多少の疎外感みたいなものは感じてたのかも

しれないなと思います。今思えば。

それでも仲のいい友達もできたし、ザリガニとったり

虫捕ったり、ひとり遊びもよくやってたので

まあまあ楽しくすごせていました。

 

 

ところがどっこい。

 

 

1年もたたないうちにまた転校することになってしまいました。

 

今度は父親の仕事の都合により、

茨城県のつくば市というところに引っ越しすることに。

 

 

近畿圏を出たことがなかった僕は不安でいっぱいでした。

わけのわからない秘境にでも行くような気分。

 

「また伊丹のときみたいに優しい先生だったらいいけど…」

 

、なんて思いながらの転校初日。

不安は的中してしまいました。

 

淡々と紹介されて特に盛り上がることもなく淡々とその日を過ごしました。

これが関東の人間かと。

 

とっとと関西に帰りたかったです。

 

このとき僕は家族に言うこともできず、

ひとりで抱え込んでしまって自らの心を閉じてしまいました。

 

 

ここから10年以上僕の心は開くことなく暗黒時代を過ごすことになります。

 

もちろんこのときには心が閉じてるという自覚はありません。

思い返せば閉じてたなぁとあとで理解できただけで。

心を閉ざす人は閉ざしてるという自覚がない

 

 

漫画を描いて雑誌に投稿したりして、絵は相変わらず描いてた模様。

このときは漫画家になろうと真剣に考えていました。

 

でも投稿してダメだったので心が折れてしまいました。

たった1回だけなのに。

ガラスのハートもいいとこ。

 

これ以降、絵を描くということからはしばらく

遠ざかっていってしまいました。

 

 

音楽との出会い

 

 

小学校の卒業と同時にまた転校して

大阪に引っ越したのでもう僕の心は完全に閉じていました。

 

そんな中、唯一心の支えになったのがバスケットボールでした。

 

中学3年間はひたすらバスケに夢中になってました。

しかも1年生のときにヒザにオスグッドという

爆弾を抱えてしまい、半年ぐらい部活に出れませんでした。

それでもケガを乗り越えて努力を重ねて上達していきました。

 

努力が実を結び、同級生はミニバス上がりのやつらばかりの中で

バスケほぼ未経験の僕がレギュラーを勝ち取ったときは

飛び上がるほどうれしかったですね。

決して強いチームではなかったですが。笑

 

努力すれば結果につながるんだということを

はじめて体験したのもこのときです。

 

高校でもバスケをしていつかバスケで

プロになってやろうとか思ってたましたが、

日本にはそのころプロバスケがなかったのと、

反抗期が訪れたのとで一年で部活に行かなくなってしまいました。

 

高校の3年間で停学を3回もくらった

バカはこの高校では僕以外にはいなかったそうです。

ちなみに停学の理由は3回ともタバコです。ダサすぎる。

 

とにかくこのころは心が荒みまくってた時期でした。

親ともすごく仲が悪かった。

 

でも神様は僕を見捨ててはいなかったようです。笑

 

1年の終わりごろにドラムと出会ったことで

僕の人生は急展開をむかえることに。

 

バスケにはプロがないけどバンドならプロがある!

 

そう思った僕はドラムに夢中になって猛練習しました。

 

 

そして高校を卒業して一応就職した僕はまだまだ

反抗期真っ最中のクソガキだったので1日で辞めてしまいました。

僕が就職して仕事を一切しないで1日でやめた理由

 

家も追い出されたので1人暮らしを始めて

親の偉大さが痛いほどわかったのもこの時期。

 

生活するって大変だなあと骨身にしみました。

 

音楽をやりたいと思っていた僕は関係のある

ライブハウスで音響としての仕事を始めました。

 

 

最初は給料なんかなかったけど必死に頑張って

メインPAとして仕事を任されるようにまではなりました。

 

その一方で高校のころ猛練習したおかげで卒業したころには

一緒にバンド組もうという声がいろんなところから掛かりました。

 

一回目の結婚がこのころ。

 

一度だけ「死にたい」と思った

 

 

バンド活動が順調に進んでいってた矢先に人間の黒い部分を知ることになります。

、というより自分が黒くなっていってしまったと表現した方が正しいかもしれません。

 

音楽活動はわりと順調でそれによっていろんな人との

繋がりができて完全に天狗状態でした。

 

人間そうなってしまうとちょっとしたことがきっかけで

すぐに関係性が崩れるものなんだと知ったのもこのとき。

1回目の離婚もこのとき。

 

 

もうちょっとでメジャーデビューというところまで

いったにも関わらず、バンドの内紛で解散。

 

僕がメジャーデビューできなかった理由

 

まわりの関係者の皆さんは

手のひらを返したようにいなくなってしまいました。

 

このときに極度の人間不信になって、

「もう死んでしまいたい」

、と一瞬だけ思いました。(←3日ぐらい悩んだ。)

 

このときに思いっきり自分と向き合ったことで

「全てにおいて自分に責任がある。自分がもっと

しっかりしてればこんなことにはならなかったはずだ」

 

、ということと、

 

「ありがとう」という感謝の気持ちを

完全に忘れてしまってたことに気づきました。

 

父、母、妹たち、じいちゃん、ばあちゃん、友達、

僕に関わってくれたいろんな人たち。

その人たちに対する感謝の気持ちを持てるように

なったとき、今まで閉じてた心が全開になりました。

 

 

 

「仕事とはなんぞや」というのを真剣に考えたのもこのとき。

 

そして二度と同じ失敗をしないようにしようと心に誓いました。

 

整骨院の院長になった

 

バンドが解散してから

しばらくはひとりで音楽活動をしていました。

曲を作ってはいろんな会社に送ってみたりしたけど、

どれもこれもうまくはいきませんでした。

 

2回目の結婚がこのころ。

 

そんなとき、目の調子が悪くなって眼科に行ったら

「網膜剥離」の診断が下されて、

手術をしないと失明するところまで悪くなってました。

 

その手術をして入院していたときにヒマだったので、

なんとなく描いてみた絵がすごく上手く描けたので

 

「あれ?もしかして音楽より絵のほうが向いてるんじゃね?」

 

、と思って「画家になる」という方向にシフトチェンジしました。

 

それでも感覚がまだ戻ってなかったので

いったんモノづくりをするのはやめようと思い、

じゃあ自分に何ができるか?

と考えて始めたのが小さいころから母に仕込まれた

「人の体を癒す仕事」でした。

 

それから専門学校に3年間通って

「柔道整復師」の国家試験に合格して

免許取得してから1年で整骨院の院長になりました。

 

3回目の結婚がこのころ。

 

1年で院長になれたのは、これまでの経験を活かすことができたからです。

 

数々の転校、心を完全に閉ざしたこと、

部活に取り組んだ中学時代、反抗期で荒れてた高校時代、

バンドを通じての音楽活動、二度の離婚、

フリーター時代にできた人とのつながり、、、etc。。。

 

 

 

失敗も成功も全てをつなげて仕事に取り組むことで

人から信頼される人間になれました。

 

信頼されるということは自ずと結果をもたらしてくれますね。

 

画家としての道を歩み始める

 

 

柔道整復師の免許を取ってからは画力を上げるために

毎日毎日ひたすら絵を描きまくりました。

 

そして絵を本格的に始めてたった1年で

国内外の公募展に出品して入賞したり、

描いた絵を買ってもらえるようになったり、

絵の仕事を依頼されるまでになりました。

 

 

それもこれも人とのつながりを大事にしてきたことが

そういうことに繋がったということの証。

 

今後は僕に共感してくれる仲間を増やして

さらに活動の幅を広めたいと考えています。

 

つながりって大事だ。

 

 

 

 

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