自分で自分を愛さないと誰も愛してくれない

自分という人間の感覚は自分にしかわかりません。どんなにつきあいが長くても、一緒にいる時間が長くてもしょせん他人は他人。親子でも感覚がつながってるわけではないのでつまるところ「自分以外の他の人=他人」です。

自分が持っている「おなかすいた」という感覚は自分にしかわからないものですよね?

そんなことは他の人が知る術はありません。自分が誰を愛しているかなんて正確にはちゃんと伝わりません。いくらかのズレはあると思います。でも自分で自分を愛しているかは、愛するほうも愛されるほうもどっちも自分なので確実にわかります。自分で自分を愛さないと誰も愛してくれないので、たとえほかの人にどれだけ嫌われようが自分で自分を見捨てるようなことは絶対しないでください。

自分という認識ができて記憶があるのはだいたい4〜5歳ぐらいから。そこからの何年間の経験してきた、いろんなことをすべてを知っているのはほかでもない自分しかいません。僕は小さいころ変なところに興味がありました。ほかの人がどうやって排泄するのかというところにすごく興味があって、見たくて見たくて仕方なかったのです。ただの変態です。でもそんなことを見せてくれなんてとても言えなかったので小さいながらに理性は保てていました。僕以外の人は僕にそんな経験があるなんてことを誰も知る由もありません。

 

自分を愛するということ

 

今の僕の話みたいなことってたぶん人に言えないような過去ですよね?でもこういうのって、変態的な話かもしれないけど「僕自身が心の底から本気で思ったこと」なんですね。だから自分自身でそれを否定してしまったら絶対だめなんです。

まあでもさっきの話で言うともう30年以上も前の幼稚園とかそれぐらいの頃の話なんですけど。

さすがにこれは極端に昔すぎてあまり参考にはならないかもですが、でも本気でやったことにしろ、自分に嘘ついてやってしまったことにしろ、その時はその時で自分を貫こうとしたか、自分を守ろうとしたか、どっちかなわけですよね?

言ってしまえば一生懸命生きようとしたっていう証です。そんな一生懸命生きようとした自分を自分で否定したらダメですよね。だからどんだけ恥ずかしい過去でもそれはその時一生懸命生きようとした証なんだから、ほかの人に何を言われようが自分だけはちゃんと認めてあげようって話です。

この自分で自分を認めてあげるってのは、もしかしたらすごく勇気がいることなのかもしれません。

人ってどうしても社会があっていろんな人と関わって生きていかないといけないので、人のモノサシで測ってしまうことがけっこうあるから。でもそれを認めれたときってものすごく強くなれるんです。認めるために何をしたらいいかというと、ものすごく自分と向き合うことです。なんでそれをしようとしたのか。

たとえばさっきの僕の排泄の話だったら、ただただどんな仕組みになってるんだろう?っていうところにすごく興味があったんですね。自分で自分のやつを見ることはできないですよね?当時はスマホとかそんなものないし。あったとしてもたぶん使いこなせないでしょうし。

だからどんなふうにして出てくるんだろう?っていうところにすっごい興味があって、どうしても知りたかったっていう。ホントにただの好奇心なんですね。

見方を変えればただの変態でしかないけど、なんでなんだろう?って興味を持つのってすごくいいことだし、それがきっかけでなんかスゴイ学者とかになったりするかもしれないじゃないですか? そもそも学者なんて大人になってそういうことをやってる変態の集まりですし。

どうやら自分を愛せるかどうかはここらへんにカギがありそうです。

あとから考えて悪いコトしたなって思うようなことでも、自分の中で正当化できたらそれでいいんじゃないですかね?

僕の排泄の話みたいに。だってそうやって思ってしまってたんですもの。その過去はどうやったって変えることはできません。じゃあそんな自分をちゃんと認めて、そこからどうしたらいいかを考えればいいだけなんじゃないかなと。

過去に犯した過ちなんて数えきれないぐらいあります。でもそれはそれでもう終わってしまったことだし、二度とそんなふうにならないようにいっぱい考えていっぱい行動してたら少しずつ認めれるようになりました。

だから大丈夫です。心配しなくてもいつか認めれるときがきます。そのためにしっかり自分と向き合ってこうだからこうしてそうなっちゃいました。って、胸張って言えるだけしっかり考えることです。まずはそれから。

人に愛されるようになる

 

そうやって自分を愛することができるようになると不思議と人にも愛されるようになります。

逆にいうと自分のこと疑ってるような人間は人にも愛されないんですね。これなんなんでしょうね?なんかそういうオーラみたいなんでてるんでしょうね?たぶん。

自分のことをちゃんと考えて、受け止めて、認めれた人って人のせいにしないんですね。自分のせいにできるってことです。

たとえばまた僕の話で申し訳ないのですが、昔バンド活動をやってまして、ちょっと人間関係でもめて解散してしまったことがあるんです。その当時は「おれ何もしてないのになんで?」って思ってしまってたんですね。それで人間不信になってしまって、誰も信じれなくなったことがあるんです。そのときの詳しい話はここでははしょりますが、ホントにまわりの人間全部疑ってかかってました。でもあとで冷静になって考えたときに「あれ?ホンマにおれなんも悪くないんかな?」

って思えたんです。これが非常に大きかった。なんでそういう考えになったかっていう経緯は覚えてないんですが。

もしかして僕がもっとしっかりしてたらこんなことにならんかったんじゃないだろうか?って思えたときになんかつきもんが全部スーッて取れたような感じがしてすごい気持ちが楽になったんです。

それではじめて自分と向き合って自分を見つめ直して、なんでこうなったのかっていうことをちゃんと分析して受け止めれるようになりました。

そしたら「おれはまだまだその程度の人間でしかない」っていうところに落ち着いて、「じゃあそこからまた頑張ってカッコいい人間になったらいいやん」って思えるようになりました。それってたぶん、自分のことを受け入れてちゃんと愛することができた瞬間なんだと思います。

そうなるとたとえほかの人が100%悪いっていう場面でも、考え方がすごく柔らかくなって、自分もそういうことを経験してるからわりとなんでも受け止めれるようになるっていうか、あんまり人に対してどうこう思わなくなるんですね。

だからけっこう相談とかされたりするようになって、人のいいところを見つけようとするようにもなりました。そうするとその人の全体的なところがいい感じで見れるようになるんです。

そんなふうになると「ああ、この人はこの人なりに今まで頑張って生きてきたんやもんな」とか思えるようになってなんか愛おしく思えたりします。

やっぱり人って、良いこと言われたほうが嬉しいじゃないですか?だから余計に人に愛されるようになるっていう好循環が生まれるんですね。

 

そうなるためにはまずは自分をしっかり見つめて向き合って受け止めて愛してあげる。

そうなると人のことも愛せるようになって人にも愛されるようになる。

決して楽な道のりではないかもしれないけど、やる価値はめちゃくちゃあると思います。

絶対人生が楽しくなる。

 

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集英社シュウエイシャ

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