わりと波乱万丈な人生です

『お前変やで』

 

生まれてこの方、僕はこんな言葉を会う人会う人ほぼ100%の人たちに言われてきました。笑

どんだけ変やねん。笑

 

でも。

 

当の本人はその自覚がまったくなく、何を言ってるんだろう?と、ハテナがたくさん飛んでいました。

 

その影響もあり、様々な困難が僕の身に降りかかりました。

 

いちばんデカいのは、約30年心を閉ざしてることに気づかなかったことです。

それが原因でいろいろなものを失っています。

 

離婚を2回してバツ2になったり。

人を信用できなくて友達がいなかったり。

人に裏切られて借金作ったり。

それが行き過ぎて人間不信になったこともありました。

 

その他もろもろ。

 

わりと波乱万丈な人生を送ってるのでなかなかのコテコテな内容になっております。

 

覚悟の上で読み進めてください。笑

 

 

おねしょのせいで・・・

 

僕が生まれたのは兵庫県の宝塚市というところです。宝塚歌劇団とか手塚治虫が生まれたあの宝塚です。手塚治虫はマンガの神様で大好きなマンガ家のひとりです。存在をちゃんと知った時にはすでに故人になっていましたが、その人と同じ場所で生まれたっていうのは、自分にとってはなんだかすごく感慨深いものがあります。

 

そんな理由からか、人生の大半を大阪で過ごしているのですが、なんか大阪出身とは言いたくなくて宝塚出身とずっと言い張っています。

 

宝塚出身というとおぼっちゃまやん!って言われることも少なくないのですが、どっこい宝塚も広うございまして。

 

僕が生まれたのは宝塚でも下町の方。小林(おばやし)というドがつくほどの超マイナーな駅から徒歩15分ぐらいのところの住宅街です。

ひと駅となりには阪神競馬場のある仁川という駅がござるところです。

家のあった場所から歩いて数分のところに競馬場がドン!と構えています。

僕は競馬が大好きなので、そんなところも宝塚出身と言い張る理由だったりします。

 

僕が住んでたあたりは、武庫川というわりと大きめの川が近くにあったり田んぼとか草むらとかけっこう自然が多くて、幼少期の僕は虫とか魚とかばっかり追いかけてるような少年でした。

 

友達とあそぶことよりもそっちの方が楽しくて、ひとりで草むらとか川に行っていろいろ捕まえてました。中でもカマキリが好きだったので、虫カゴに入れて持って帰ってバッタとかを食べてる様子を観察してニヤニヤしてるような、そんな子どもでした。

カマキリに話しかけたりしていたので、親が心配そうにみていました。

この子大丈夫かしら?って。

 

この頃からすでに変な人オーラが全開ですが、もちろん自覚はありません。

いちおう弁明するとですね。

すごく繊細で優しい心を持ってたっていうだけなんです。

人間が偉いとか。虫だから下等だとか。そんな考えはクソッタレと思っていて、なんで虫だって一生懸命生きてるのに人と同じように考えないんだろう?と不思議でいっぱいでした。対等な目線でみてただけなのに、そしたらなぜか変だと言われてしまっただけです。

 

この頃の僕は友達の誘いとかも平気で断るようなヤツで、すごく自由奔放に生きていたのです。

#むしろそれは普通のことなのかもしれない

 

でもそれはまわりの人に対する信頼の表れだったんだ、と後々気づくことになります。

自分で言うのもアレですが、基本的には人懐っこい性格なので、けっこう友達もたくさんいて、子ども大人問わず可愛がられるようなヤツのはずです。

 

基本的には。笑

それがいろいろあって、ホントの自分を出せず、狂っていくことになります。

 

まわりの人たちに全幅の信頼を寄せてたからこそ、断ってもまた誘ってくれる、という精神的な後ろ盾と安心感があって、わがままに生きていれたんです。

 

断ってばっかりじゃなくたまに一緒になって遊んでたし。それはそれで楽しい時間を過ごすことができてたので、協調性もある方というか、思いやりはたぶんめちゃくちゃある子です。

思いやりでいうとたぶん日本でもトップクラスです。

 

こうやってみると何事もなく順調に育ってる感じがするのですが、僕はひとつの大きな悩みを抱えていました。

 

それは「おねしょをしてしまう」ということです。

 

それもほぼ毎日。欠かさず。笑

365日のうち、360日はおねしょしてました。

 

そして毎日親に怒られ、時には呆れられ、そのたびに僕は落ち込んでいました。

 

物心ついた時からずーっと毎日起きたら股間のあたりがビチャビチャに濡れてるという生活が小学校3年生ぐらいまで続きました。

およそ5年間。

 

その当時、畳の上に布団を敷いて寝ていたのですが、毎日同じ場所にアンモニアが布団を貫通して畳まで染み込んでしまうもんですから、そこの畳が腐ってしまってたいへん面白いことになっていました。笑

 

おねしょなんて自分でコントロールできるものではないので、したくない!と思ってはいても関係なく膀胱の扉は全開になってしまいます。

 

怖かったのはお泊まりする時です。

おじいちゃんの家とか親戚の家とかなら、まだ知ってくれてるからマシなのですが、友達の家とかに泊まる時とかはもうビクビクしながら寝てました。

でもそういう時だけは気が張ってるからか、おねしょはせずにすんだのです。

 

 

決して好き好んでおねしょしてるわけじゃないのに、何故怒られなければならないんだ?という思いが募ってしまって、親に対して不信感と恐怖しかありませんでした。

不信感を抱いた原因はもうひとつ。

ファミコンを買ってくれなかったことです。笑

まわりの友達がみんなファミコンで楽しくあそんでいる中、僕の親はいくら頼み込んでも頑として聞き入れてくれず。

しかたがないので、ダンボールとか厚紙とかを使って自分でファミコンをつくってあそんでいました。

それはそれで楽しかったし、他にもカメとかいろんな昆虫とかも紙で作ってあそんでたので、この頃からモノを作るのはすごく好きでした。

 

親はそんな感じで寄り添ってくれないし、おねしょしてるなんてことはまわりの人たち、特に友達になんかは恥ずかしくて口が裂けても言えないので、ひとりで抱え込むしかなかったのです。

何か悩みを抱えてるなんてことを悟られたくもなかったので、常になんでもないフリをしないといけないので大変です。

何かあった?

みたいなことをもし悟られでもすればすべてがバレてしまうので。

 

今でもなんでもないフリをするのは得意技なのですが、それはこの頃に身についたものです。

今思えば、物心ついた時からすでに心を閉ざす兆しはあったんだなーとしみじみ。

 

とはいえ。

これは自分が勝手に抱え込んだもので、他の人たちはまったく関係なく、いろんな人が愛情をたくさん注いでくれていたのでなんとか持ちこたえてた感じはあります。

 

そんな中、唯一の僕の心の拠り所は昆虫を捕まえたり川に魚とか亀とかを捕りに行ったりして、自然に触れることでした。

自然はそんなこと関係なく僕を包み込んでくれるし、時に危ないものなんだぞ、っていうことも教えてくれる。

 

そしてそんなことを僕に教えてくれたのは幼なじみのひとつ年上のKくん。

 

彼は家が10秒でたどり着ける場所にあった幼なじみで、僕が物心ついた時からずーっとふたりで行動を共にしてくれて、虫のとり方とか、魚のとり方とか、それができる場所とか、とにかくいろんなことを教えてくれました。

 

僕はKくんが大好きだったし、Kくんもすごく僕のことを可愛がってくれていました。

 

Kくんが小学校に入ってからは、あそぶ頻度も少しずつ減っていって、他の子とあそんだりもしたのですが、やっぱり感覚が全然違うので、僕がワクワクするようなことは他のみんなはワクワクしてくれなかったのです。それにすごく物足りなさと寂しさを感じて、僕はひとりであそんだ方が楽しいや、ってなっていました。

 

なので、決して孤独が好きというわけではなく、人間は大好きで、どっちかというとみんなで一緒にワイワイやりたいタイプです。

 

…っていうことはKくんも「変」な人だったんでしょうかね。笑

 

この頃の僕は心を閉ざしてた部分もありつつですが、わりと楽しく人生を過ごしていました。

それはとにかくまわりの人たちが温かくて、幼いなりに人間ってこんなにも温かいものなんだ、っていうのを肌で感じれてたからです。

現在では考えられないですが、近所のおっちゃんおばちゃんに怒られたりどつかれたりするのなんて当たり前で、そういう人たち含め、町全体が「家族」みたいな感じで接してくれて、すごく温かかったのです。

あぁ…これが人の本来の姿なんだろうなぁ…と、僕の「人間」に対するイメージはこの頃に出来上がったもので、それはすごくラッキーだったな、と思います。

 

それともうひとつ。

僕は物心ついた時から絵を描くことが好きで、ヒマさえあれば紙とエンピツを持って机に向かうような子どもでした。初めて描いたドラえもんが小さい頃のアルバムに残っていて、それをみて自分で泣きそうになってました。それがまたなかなか上手いんです。笑

そしてですね。

テレビはまったくといっていいほど興味がなく、みるとしたらアニメと動物ものと志村けんぐらいだったのですが、その志村けんに対してすごく憧れの気持ちを抱いていました。

こんな大人になりたい、と。

 

かといって僕は人前に出て何かをするなんてことは恥ずかしくてできない人間なので、他に道はないものか、と考えてたら、アニメがあるじゃありませんか。

アニメはドラえもんとドラゴンボールを中心によくみていたので、マンガ家になれば志村けんみたいになれるんじゃないか?と、ボンヤリとマンガ家を目指し始めます。

そういう「夢」みたいなものがあると、ワクワクドキドキ胸が踊ります。虫を捕まえたり、自然に触れている時も同じようにワクワクドキドキ胸が踊ります。そういうワクワクドキドキが心の支えになってなんとか保てたっていうのもあると思います。

 

そんな僕に事件が訪れました。

 

小学校2年生の時、母ちゃんが応募してた団地が当選したらしく、となりの伊丹市に引っ越すことになりました。伊丹空港のあるところです。

田中マー君と巨人の坂本選手が育ったところです。笑

 

僕は小学校を転校することになりました。

 

引越しをする当日、親が学校に車で迎えにきてくれて、授業の途中だったのですが、クラスのみんなでわざわざ校門のところまで見送りにきてくれたあの光景は、今でもまぶたの奥に焼き付いていて、すごく嬉しいけど、もうここに戻ってくることはないんだなーっていう、すごく寂しい思いをしたのを今でも鮮明に覚えています。

 

そんな寂しい思いの中、転校した先の小学校の担任の先生はすごく優しくて、転校生の僕が教室に入ろうとすると、先に先生が入っていって、クラスのみんなに「ちょっとみんな!転校生きたでー!!」とすごく煽ってくださって、大盛り上がり。少しこっ恥ずかしかったですが、みんなすごく温かく迎えてくださいました。

そうしてくれたことで僕の寂しい気持ちは少し和らぎました。

 

こうして、僕はすぐにみんなと打ち解けることができました。

そしてここ伊丹市でも相変わらず虫ばっかり追いかける日々を送っておりました。

とはいえ、やっぱり宝塚の頃のような絶大な安心感はなく、まずは信頼関係を作ろうとしてたのでしょう。友達とあそぶことも宝塚にいた頃よりは増えました。割合でいうと宝塚にいた頃は9.5:0.5ぐらいで、伊丹では8:2ぐらいの感覚。

 

そんな中、仲良くしてくれてた友達が少林寺拳法を習っていたので、僕も勧められて習い始めることになりました。

 

格闘技を習ったことでやたら好戦的になり、人生でいちばんケンカをしてたのがこの時期です。

同級生はもちろん、上級生に対しても平気でケンカを売りまくる始末。

勝てるハズもなくボコボコにやられてました。笑

 

この時にケンカって一瞬で仲良くなれるコミュニケーションツールみたいなものだなぁ、と思った部分があります。お互いいがみ合って殴り合いして、次の日にはなんか意気投合してそこからすごく仲良くなってました。

「昨日の敵は今日の友」

なんて言葉がありますが、まさにその通りだなと。

そんな部分も持ち合わせているのですが、それは一部分で、やっぱり殴られるのは自分も痛いし、相手も痛いはず。どんなケンカであっても虚しさはどうしても残ります。

 

そう考えるとケンカとか戦争とかって、何も残らない無意味なものだなぁ…と考えるようになりました。笑って話して解決できたらそれがいちばんいいじゃないか、と。

それ以降極力争いごとを避ける平和主義者になっていきます。

ボクシングとかK‐1とかはスポーツだしエンタメなので、また別モノとしてとらえることはできております。

むしろみるのは好きな方です。

 

なんだかんだで伊丹市の人たちは、宝塚に比べるとちょっと物足りない感じはありましたが、基本的には温かい人たちばっかりでした。

この頃にもまだおねしょはしてたし、精神的にもなかなか不安定ではありましたが、まだ人間らしく生きれてたかなーという気がしています。

 

そんなこんなで1年が経とうとしてた頃、試練が訪れます。

 

続き⇒波乱万丈な人生②どんどん閉ざされていく心

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください