水墨画の歴史:実は3000年の歴史を誇るすごいやつ

こんにちは。水墨画家のDと申します。

今回は「水墨画の歴史」というテーマで能書きをたれていこうと思います。

水墨画は白と黒だけのこの上ないシンプルな絵画なのに観た人を一瞬で人を惹きつける独特な何かがあります。

何がそうさせるのか?

水墨画はめちゃくちゃ古くて、実に3000年もの歴史を誇ります。厳密にいうと3000年という数字はちょっと盛りすぎかもしれませんが、そこには間違いなく数字だけでは測れない何かがあります。

ホラ、何の変哲もない湯呑み茶碗が「これ、実は徳川家康が使ってたものなんだよ」って言われたら、突然その湯呑み茶碗が趣のあるものに見えてくるでしょ?徳川家康が活躍してたのって400年ぐらい前の話です。

400年でもそういうことが起きるんだから3000年なんて言われたらもう何が何だかわからないですよね。

そんな水墨画の歴史に迫ります。

 

水墨画の誕生

 

水墨画の元祖・墨絵

 

水墨画の歴史はすごく古くて紀元が始まる1000年以上も前の中国で、墨を使った甲骨文字という古代文字があったという記録が残っています。ほかにも刑罰として人の体に墨で文字を入れる「入れ墨」が行われていました。「タトゥー」は元々刑罰だったんですね。

残念ながら墨を使った絵の記録は残っていませんが、字を書いてたんだから当然、墨を使って絵を描くこともしていたに違いないと勝手に思っています。

一番古い「墨で描いた絵の記録」として残っているのは漢の時代(紀元前200年)のことです。今から2200年も前の話です。

でもこのころはまだ「水墨画」じゃなくて黒一色だけで表現する「墨絵」でした。水墨画は墨絵が発展したものです。

それが墨を使って描いた絵でいちばん古いものです。

水墨画と墨絵の違いとは?画像付きで解説

 

水墨画としての確立

それから水を使って墨の濃淡を表現した「水墨画」が成立したのは唐の時代の後半(西暦618年~907年)。

荊浩(けいこう)さんという水墨画家が発案しました。その荊浩(けいこう)さんが著書の中に水暈墨章(すいうんぼくしょう)のごときは我が唐代に起こる」という言葉を残していて、それが水墨画の語源となりました。

 

「水暈墨章」は水で暈(くま)どり墨で章(あや)どるという意味で、要するに水で暈(ぼか)した墨で絵を描くと面白いよね、ということです。

たぶん荊浩さんはひとりで「墨って水で薄めたらすっげえ面白い表現ができるんじゃね?」とかなんとかブツブツ言いながらやってたに違いありません。

 

日本での水墨画

日本に墨が伝わったのは奈良時代(710年~)のことです。おとなりの国・中国はこの時代すごい先進国で日本人の憧れの国でした。

そんな中国から墨が日本に伝わってきて、手紙、書籍を書いたり壁画を描いたりしていました。

日本でもこのころはまだ水を使った「水墨画」ではなく墨だけで描いた「墨絵」でした。中国で荊浩さんが水墨画をブツブツ言いながら発案していたころはまだ日本には「水墨画」は届いていません。

鎌倉時代

「水墨画」という形で伝わってきたのは鎌倉時代(1185年~)のことです。荊浩さんが発案してからおよそ400年のときを経てようやく日本にも伝わってきました。

このころの中国の絵画や工芸品は高級品としてお殿様たちに大変人気の品で、中でも水墨画は特に人気が高く、お殿様たちはこぞって絵師たちに「中国の水墨画のような絵を描いてほしい」と依頼するほどだったそうな。

このころ、中国と日本で禅僧(お寺のお坊さん)の行き来が盛んで、それと一緒に水墨画が伝わってきました。

なので水墨画と禅はとっても深い関りがあります。かの有名な雪舟さんも幼いころお寺で禅僧として修行に励んでいました。

室町~安土・桃山時代

この時代は水墨画の全盛期でした。

というのも、このころ日本の水墨画は禅僧の修行の一環として行われていて、少しおカタイイメージがあったようです。

周文、如拙といった画僧(絵を描く専門の僧)が世に出た後、水墨画家界の英雄「雪舟」が登場し、水墨画の、日本の画壇の歴史を変えました。

彼がいなければ今の日本には水墨画はなかったかもしれません。雪舟は本場中国に渡り、山水画などの画法を学び、日本に持ち帰りました。

水墨画で有名な雪舟の生涯と作品をしらべてみたらすんごい人だった

彼が後世に与えた影響は凄まじくて、のちの狩野派などをはじめ、多くの人たちを魅了しました。

狩野派は狩野正信が足利幕府8代将軍「足利義政」の御用絵師に取りたてられたことから始まり、その後の日本画壇を席捲します。

江戸時代

1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が政府の実権を握るとそこから約300年もの間徳川幕府として日本の頂点に君臨します。

そんな中、足利、織田、豊臣と権力者が代わっても狩野一族は御用絵師として常に日本画壇のトップに君臨し続けます。江戸時代はまさに狩野派の時代でした。

そんな狩野派が師として崇拝したのが「雪舟」です。

日本トップに君臨してる人たちが崇めちゃったもんですから、雪舟さんの株はうなぎのぼりです。そうなると各地のお殿様たちはみなさんこぞって「ならば雪舟のような絵を描いてほしい」と依頼して、雪舟さんの作品を求めるようになりました。

結局狩野派は400年もの間日本の画壇に君臨していて、これはもう日本の水墨画の歴史そのものといっても過言ではないぐらいの権力を握っていました。

ときを同じくして俵屋宗達が本阿弥光悦に才能を認められて始まった流派、「琳派」があります。

狩野派が家族とか親せきで形成されていたのに対して、琳派はどちらかというと「フリーランス集団」です。もともと琳派という言葉はなくて、彼らは自由な画風を信条にしていたものを後世の人たちが「琳派」と名付けたものです。

ひとくくりにしたがるのが日本人の習性です。

 

 

これからの水墨画

 

そんな歴史の深い水墨画ですが、明治維新で西洋の文化が入ってくるとその勢いには勝つことができなかったようです。あれだけの勢力を誇っていた狩野派も江戸幕府が終わるとともに終焉を迎えました。

それに代わって岡倉天心、横山大観、菱田春草、下村観山、橋本雅邦、小川芋銭らがなんとか西洋美術に対抗しようと模索していましたが、日本の「芸術」に対する関心の低さと「歴史と伝統のある文化」が災いしたのか、一般的な認知度はそんなに高くないのが現状です。

水墨画が「一見さんお断りの老舗の高級料理屋さん」みたいになってしまってるなぁという印象です。

 

でも幸いなことに今はインターネットを使って世界中いつでもどこでもつながれる時代です。

彼らがもし今生きていたら間違いなくネットをフルに活用して日本画・水墨画を世界に発信していたんじゃないかと、想像しただけでワクワクします。

彼らの成し遂げられなかった意志を誰かが継がないとダメだと思います。微力ながらそれができるのがこの「白と黒の世界」だと思っているので彼らの意思を継いで僕は水墨画を発信し続けていきたいと思います。

 

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