1733年。江戸時代中期、有名な隅田川花火大会が始まった年にひとりの画家が生まれました。
その名は「円山応挙」。
「雪松図屏風」という作品が国宝に指定されていて、いまや定番となっている「足のない幽霊」を描き始めたと言われています。
最近人気が爆発した鶏の絵で有名な画家・伊藤若冲と同世代の画家で、しかも同じ京都出身です。応挙のほうがだいぶ年下ですが、ふたりは同じ写生を重視したライバル関係にあるような画家でした。若冲のほうがなんとなく一般的な認知度は高いかなぁという印象です。
なのでこの時代の画家といえば伊藤若冲の名前が挙がりそうな感じがしますが、その天才っぷりは若冲と人気を二分するほどで、京都の文化人を紹介した美術年鑑「平安人物誌」にも名前が載っていて、若冲よりも応挙が先に名前が挙がっています。
一匹狼だった若冲に対して応挙は門弟が100人もいて、「円山派」と呼ばれる京都の画壇を席巻した画家集団をまとめていました。
そんな天才画家・円山応挙の生涯に迫ります。
生い立ち
1733年、応挙は丹波国南桑田郡穴太村、現在の京都府亀岡市曽我部町で農家の次男として生まれました。この時代は次男は家の跡を継がないので11歳ごろに四条新町の呉服屋に出稼ぎに行って、15歳ごろに京都へ上がったとされています。
10代の後半で石田幽汀という絵師の門を叩いて弟子になっていることから、幼いころから絵を描くことが好きだったんだと思います。
石田幽汀は室町時代から幕末まで日本の画壇のトップに君臨した狩野派の絵画技法を学んだ絵師で、狩野派の技法、琳派の技法を習得していました。
応挙もそれらの技法を学んでいました。
眼鏡絵との出会い
20代になった応挙は京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商店で働き始めます。
そこで人形の彩色などの仕事をしながら絵師としての修行に励んでいました。
ちょうどそのころにそのお店でオランダから輸入した「覗きからくり箱」なるものを取り扱うようになりました。
これは小さな穴にレンズが取りつけられていて、レンズを通して45度に傾けた鏡に映った絵を見ると奥行きが深く感じられるという不思議な玩具です。
この左右反対に描かれた絵は「眼鏡絵」と呼ばれていて、はじめはオランダや中国から輸入した眼鏡絵を使っていて、数に限りがあったんですね。
でもその珍しさで、顧客は興味津々になり、「新しい眼鏡絵はないのかい?」という声がたくさん上がりました。
中島さんはこれを受けて応挙に眼鏡絵を描かせることにしました。
応挙はこの眼鏡絵を描くにあたって最初は中国やオランダの眼鏡絵を模写していましたが、次第に鴨川を描いたり、四条河原の風景を描いたりと、独自のスタイルを確立させていきました。
応挙の描く眼鏡絵は評判がよく、そのうち版画として出版されるほどの人気っぷり。
尾張屋中島勘兵衛は高級な玩具も取り扱っていて、御所、公卿、門跡寺院にも出入りしていました。
その流れで眼鏡絵を通して円山応挙の名前が上流階級の人たちにも知れ渡るようになり、円満院の裕常門主や当時の豪商・三井家などの有力なスポンサーを持つことができました。
彼らの注文に応じて後世に残る名作をたくさん描いていくようになります。
眼鏡絵との出会いがいち農家の出身である円山応挙の運命を大きく変えました。
当時は封建社会で身分制度が当たり前だったので応挙のような農家出身の身分の人が上流階級の人たちと接触を持つなんてことはありえなかった時代です。
これは決してたまたまなんかではなく、彼の絵に対する情熱と、「画家になる」という強い想いがあってこその結果だと思います。
なんだかすごく勇気をもらえますね。時代はまったく違いますが、そういう「情熱」とか「想い」っていうのはどんな時代でも変わらない気がします。
写生を重視した画風
応挙は34歳ごろから「円山応挙」を名乗り始めます。また、この1766年には息子の「応瑞」が誕生しています。
名前の由来は中国の画家・銭舜挙に負けないように「銭舜挙に応ずる」という意味が込められています。
応挙の画風は当時としては珍しく「写生」を重視したものでした。
このころは写生は本番に向けた下絵程度の扱いで、「粉本」と呼ばれる見本の絵を模写するのが絵の修行としては当たり前の時代でした。その流れは画壇のトップに君臨していた「狩野派」によるものです。
「粉本」
そんな中、応挙は常にスケッチブックを持ち歩いて暇さえあれば写生していて、とにかく写生が絵の極意なんだと言わんばかりに写実ばっかりしていたようです。
本番の絵も写実的な表現が多く見られます。それまでの日本画にない画風で円山応挙の大きな特徴と言えます。
これは中国の画家・沈南蘋の影響が大きくて、実際に沈南蘋の絵を見るとなるほど、と納得できます。
沈南蘋はモチーフの存在感が強くて濃密で写実的な絵をたくさん残していて、応挙だけじゃなく、伊藤若冲、与謝蕪村にも影響を与えています。
個人的には銭舜挙よりも沈南蘋の影響のほうが大きいんじゃないかなぁと思ったりしています。
円山派
応挙は独自の写生スタイルを作り上げて、多くの弟子を持つようになり、「写生の祖」と呼ばれるようになります。
その数100人を軽く超えていたとかなんとか。
当時の京都ではこの画家集団のことを円山派と呼んでいました。
その中でも特に優れた10人のことを「応門十哲」と呼んでいます。
応挙は弟子たちを集めて絵画制作の工房を作り、兵庫県大乗寺にある障壁画などのひとりでは描けないスケールの大きい仕事を工房で請け負っていました。
晩年
応挙が56歳のとき、「天明の大火」という京都の街を火の海にした大火事が起こります。
この大火は京都の人々の住居だけでなく、二条城や幕府の役所、摂関家(摂政・関白の地位を独占した最上級の公家)の邸宅なども焼失させてしまいました。
その2年後には京都御所が作られて障壁画の依頼を受けています。
この仕事は最高権威にお墨付きを得たということで、当時の画家たちにとってはものすごく名誉なことでした。
当時の政府御用達の画家といえば狩野派だったのでいかに円山派の実力が凄かったかがわかります。
それからほどなくして応挙は老いによる眼病を患い、歩行も困難な状況になり、制作ができなくなります。
それでも弟子たちの支えにより62歳のとき金刀比羅宮表書院に「瀑布図」と「山水図」を描いて、翌年には大乗寺に「松に孔雀図」という大作を完成させています。
その翌年、病状が悪化して自宅でこの世を去りました。
円山応挙の代表的な作品
応挙の死後、その意志、写生を基礎とする画法は息子の応瑞、弟子たちが受け継いで、明治、大正、昭和を生きた近代の画家へとつながっています。
■『雪松図屏風』
国宝
■『七難七福図巻』
重要文化財
■『牡丹孔雀図』
■『時雨狗子図(しぐれししず)』
■『コオロギとイナゴ』
スケッチブックを持ち歩いて暇があれば写生をしていたときに描いたものです。
ベラボーに上手いですね。
この絵をみて、いつの時代も絵って変わらないんだなぁと改めて感じました。
まとめ
今回は円山応挙という画家にスポットライトを当ててみました。
こうしていろんな画家の生涯にふれることで自分を奮い立たせることができるし、その想いや意志を受け継ぐこともできるなぁと思います。
円山応挙はただの農家の生まれでした。
そんな人が腕一本でここまでのし上がったというのはホントに素晴らしいことだと思います。