これまで自分勝手に生きてきたので、人のために何かできることはないか?と思っての二択でした。
教師になって、これまでの人生でいろんなツラい思いをしてきて、そんな経験を生かしてできるだけ楽しく生きるためにはどうしたらいいかを子どもたちに伝えたい、とか考えてました。
もう一方で、ドラムをやってた時に腰が痛くて通った整骨院で、すごく丁寧に痛くなる原因とかを教えてもらって「こんな仕事もあるんだ」と感動したことがありました。
どっちにしようかと悩んでいました。
そういえば、バイトしてたパチンコ屋さんでおじさまとおばさま連中にすごく可愛がられていて、よくお小遣いをもらったり、ご飯に連れていってもらったりしていて、同僚たちから「マダムキラー」と呼ばれるほど人懐っこいキャラになっていました。
そんな中、整骨院の専門学校の校長をしてるというおじさまに「こんな仕事してみないか」とバイト先のパチンコ屋さんで声をかけられました。
僕の考えてた選択肢のひとつにこんな形でめぐり会うなんて、これはもうそういう運命なんだと。
僕のたどる道は決まりました。
それから専門学校に行くお金を貯めるために、朝から夕方まではパチンコ屋さんでバイトして、夕方から少し寝て夜から朝まで運送会社の仕分けの仕事をするという、なかなかハードな生活を1年間続けました。
そしてその間に僕は2度目の結婚をしていました。
相手は14歳年上の3人子連れ。
子供は女の子2人と男の子1人でしたが、女の子の方は、僕よりも4つと6つ年下で、年齢的にはほぼ妹、というカオス状態。
よく生活できてたな。
男の子は出会った当時10歳。
その男の子は2歳の時に父親と死別していて、父親がどういうものなのかを知りません。
最初は結婚はもういいや、と思ってするつもりはなかったのですが、男の子と家の前でキャッチボールをして遊んでいたところ、その子の友達が遊びに誘おうとやってきて、「この人誰〜?」と僕を指さしてひと言。
そしたら「誰でもいいやん」と、ちょっと気まずそうな感じで友達をあしらっていました。
それを見た僕は、この子に「お父さん」って呼ばせてあげないとダメだ!と謎の使命感が燃え上がってしまい、結婚する決断をしました。
そうそう。
この間に僕は左の目がほぼ見えなくなっていて、距離感がまったくつかめない状態になっていました。それでもキャッチボールぐらいはできるぐらいには練習しました。
病院に行ったら「網膜剥離」との診断が下りまして、1週間入院して手術を受けました。
手術をしても治ることはなく、進行を止めるための手術です。
そんなこんなで左目は一生見えるようになることはないそうです。
話を戻します。
専門学校に通い始めたと同時に、声をかけてくれたおじさまの整骨院で働くことになりました。
そこだけの収入では生活ができないので、朝整骨院で働いて、昼間に寝て、夕方から専門学校に通って、終わったらまた運送会社で朝まで仕事をする。
そんな生活がスタートしました。
今考えるとなかなかハードな生活だったなーと思いますが、その当時はもう必死だったので、それをしんどいと思ったことは一度もありません。
専門学校での成績はわりと優秀で、最終的に学年でTOP10に入るぐらいの成績で卒業して、無事に国家試験にも合格することができました。
そして、専門学校を1年ぐらい通ったぐらいの時に2度目の離婚をしております。
20代でバツ2になりました。
国家資格を取得してから1年後、僕は整骨院の院長になりました。
地域の人たちに愛されるようになりました。
専門学校でひたすら体の勉強をしている時、授業が全然面白くなくて、暇を持て余す時がありまして。
#ちゃんと聞きやがれ
専門学校でも小・中学校でも高校でもそうですけど。
なんでこんなクソ面白くもなんともない授業をする人が「先生」として成立してるのか。こんなやつに授業料払ってるかと思うと「金返せ」って思う。
そんなクソ面白くない授業の時は、聞く価値がなく、教科書読んでる方がよっぽどタメになるので、ちょろっとノートの端っこの方に絵を描いて遊んでみようとふと思ったのです。
これまでもたぶん描いたことは何度となくあったんでしょうけど、たぶんラクガキ程度のものです。
なんなら絵を描くっていうことからは意識的に距離を置くようにして、絵を描くような雰囲気になったらその場から離れたりとかしてました。
#トラウマ発動
なので真剣に絵を描こうと思ったのはおよそ20年ぶりぐらい。
そしたら、それが自分でもビックリするぐらいすごく上手に描けまして。
「あぁー…そういえばちっちゃい頃はたくさん描きまくってたなぁー…」と、子どもの頃のことを思い出しました。
そういえば僕は絵を描くことが好きだったんだ。
その時描いた絵がこれです。
#画像スズメ
こんなに描けるのに、どうして今までそのことから目を背けてたんだろう?という疑問がわいて出ました。
少年ジャンプのマンガ賞みたいなのに応募してそれがダメだったぐらいで。
シンプルにナメてたんでしょうね。
自分の力を過信して、過大評価しすぎて。
でも世の中上には上がいる、自分がいかに低レベルかっていう現実を突きつけられて、そこに立ち向かわずに逃げ出した。
そこからいろんなことを経験して、世の中は広くていろんなことがあるっていう現実も知った。
その上で頑張れば結果が出て、それによってある程度認められるんだっていう自信もついた。
マンガ賞に応募した時の僕は、小学校6年生で、まだまだお子ちゃまです。
経験値もないし、頑張れば結果が出るなんてこともまだ知りません。絵は頑張って上手くなったわけじゃなくて、楽しくて夢中になってやってたら勝手に上手くなってただけ。
バスケも同じく。
バスケを頑張って練習したのは中学に入ってから。そこで初めて頑張ったら結果が出るんだっていう体験をしました。
なので小学校6年生の時って、まだ成長する前でメンタルはすでにボロボロだし、すごく狭い世界の中でしか生きてなくて、そこに立ち向かう勇気も根性もまだ持ち合わせておりません。
で、絵を描くことが怖くなってそこから自分を遠ざけた。
たぶんホントは絵を描きたかったんだと思うんです。
心の奥底では。
でも今現時点でこれ以上惨めな自分をみたくない、みたいな心理が働いて、傷つかないように絵を描くことから距離を置いた。
たぶんそんな感じ。
あれから約20年。
心の奥底にあった「絵を描きたい」っていう気持ちがムクムクっと蘇りました。
それは、いろんな経験を積んで、いろんな世界を知って自信もついたし、メンタルも多少強くなれたから。
後、音楽をやったことで芸術魂みたいなものが覚醒したことが要因ではないかなと。
そもそも音楽を真剣にやろうとしたキッカケは、ある曲を聴いたことで魂をガシッと鷲掴みされるほど、強烈に感動したからです。
今まで生きてきた中でそういう感動を味わったことがなくて、音楽で初めて全身に衝撃が走るほどの、言葉が何も出てこないほどのものすごい感動を味わいました。
これを「芸術の覚醒」と僕は呼んでいます。
人はホンモノの芸術に触れた時、魂が揺さぶられて、言葉が出てこないほど感動して、それがある種の快感になる。
ホンモノの素晴らしい芸術に触れた時に起こる何らかの化学反応は、人を絶句させるほどの感動で包み込んでくれます。
それは音楽だけじゃなくて、絵とか彫刻とか建築とかでも同じ。
その快感は同じ作品では二度と味わうことができません。
それでもじゅうぶんすぎるほどの感動は味わえるのですが、やっぱり一度触れた芸術は、二度目は鮮度が落ちてしまいます。
なので常に新しいものを取り入れていかないとそういう感動はなかなか味わえません。
とはいえ。
鮮度が落ちてようが、一度味わったらまたそれを味わいたくなるのが芸術で。
美術館とか音楽のコンサートとかなんかはまさにそれですよね。後はCDとかYouTubeなんかも。
知ってるけど触れたくなる、みたいな。
そういう快感を味わって、今度は自分がそれを与える側になりたい!った思ったんです。
で、音楽ではそれが出来たし、情熱が薄れてるので、次は絵の世界でやってやろうと、この時心に決めました。
そもそも。
僕は人前に立って何かをやることがすごく苦手な人間なのです。
物心ついた時からいろんなことがありすぎて、精神的にグチャグチャになってしまって、ホントの自分がわからなくなっていました。
だから音楽をやるようになってライブでステージに立ってドラムを叩くなんてことができたんです。
本来ならそんなこと恥ずかしくてできない人間です。
それよりも、裏で音響やってる時とか、パソコンとにらめっこして曲作りしてる方が楽しかった。
そんな引きこもり気質な人間です。笑
薄々感じてはいたことなのですが、自分を見失ってるがゆえにそこに気づくのにずいぶん時間がかかってしまいました。
でもいろんな人との出会いによってようやく本来の自分の姿を取り戻すことができました。
取り戻すことができた今は、全力で引きこもって絵を描いて生きていこうと思っています。
水墨画作品はもちろん、水墨画を使ってマンガを描いたり、それを原作に映画を作ったりしたい。
そんな裏方人間のDをよろしくお願いします。
僕は引きこもり気質ですが、絵のこととか人生について語り合ったりして、みんなでワイワイやるのが好きな人間です。
なので、僕がやりたいことを手伝っていただけると喜びます。
特に映画作りなんてひとりでは絶対できないので、あなたの力が必要です。
ぜひ助けてください。
よろしくお願いしますm(_ _)m
詳しくは絵画教室「Dの部屋」から返信してください。