M先生が一生懸命力を尽くしてくれたおかげで、僕は高校を卒業したら就職することが決まりました。
海鮮居酒屋みたいなところで厨房のお仕事です。
料理には興味があったので、将来的に料理人になるつもりでした。
感謝しかありません。
しかし。
僕の心の中にはひとつの迷いがありました。
音楽はどうした?
この頃、両親、特に父親との仲がすこぶる悪く、高校を卒業したら家を出る、ということも決まっていていました。
一人暮らしをするなら音楽をやるなんてそんなムチャ出来ないし、何よりもそんな時間なんてたぶんとれないしなー。
しかも初めての一人暮らしで、わかってないことだらけだし。
いろいろ自分の中で悶々としつつも、せっかくM先生が頑張ってくれたんだから、と自分を言い聞かせて、無事に高校を卒業しました。
卒業した瞬間に引越しです。
そして迎えた入社式。
ここで事件が勃発します。
他の新入社員の皆さん、なんとスーツで来ているではありませんか。
僕ひとりだけジーパンにジャンパーの超普段着。
しかも髪の毛は茶色くてフワフワパーマをあてていて、完全に浮いていました。
なぜこうなったのか。
僕は一般常識をまったく知りません。その状態でひとり暮らしなんて始めたもんだから入社式にはスーツで行く、なんて誰も教えてくれず、聞くこともしませんでした。
当然、社長はなんだか不機嫌です。
とりあえず服はもういいから髪の毛を何とかしてこい、と。
僕は悪気はまったくなかったのですが、高校を卒業したばっかりの18のお子さまにもうちょっと優しくしてくれても…とちょっと不満に思いながらも、こんなところでワガママをしてしまうと尽力してくれた担任のM先生に顔向けできません。ここは素直に受け入れて、髪の毛を切るためいったん帰宅。
どうせ切るなら丸坊主にして誠意を示そうと思い立ち、せっかくあてたパーマをバッサリ。
これで社長のご機嫌も直るだろう、と胸を踊らせて戻りました。
ところが。
そんな僕の思いは完全にどこ吹く風で、不機嫌モード継続中。
坊主にしたのに???
なぜ?Why??
どうやら不機嫌の原因は、ちょっとだけ抵抗して残したモミアゲが気に入らなかった模様。
終始不機嫌な顔で一度も表情が崩れることもなく、モミアゲを剃ってこいと言われました。
僕の中で何かが切れた音がしました。
ただでさえ不信感を抱いていたのに。
それでも誠意を精一杯見せようと坊主にしたのに、その覚悟とかをフル無視してモミアゲ剃ってこいと。
それから二度とそこに行くことはなく、僕の就職生活は半日も持たずに終わってしまいました。
こうなってしまったら、もう音楽に身を捧げるしかない、と腹をくくりました。
この決断をしたのは、どこかで音楽に対する想いを捨てきれなかったからなんだと思います。
むしろこうなってよかった、ぐらいに思いました。
M先生ごめんなさい。
今度会ったら全力で謝ります。
でもそんなことで怒ったりするような人ではなく、むしろ「アンタらしいわww」とか言って笑ってくれそうな人です。
案の定、再会した時その話をしたら、大爆笑してました。
ホントにステキな先生に巡り会えたなーとしみじみ。
音楽の道
就職を半日ももたずに辞めた僕は、その日のうちに髪の毛を金髪に仕上げました。
金髪坊主のできあがり。
#18歳だから #後先考えず #大暴走
音楽に身を捧げるとはいったものの、僕には何のツテもありません。
さてどうしよう。
とりあえずひとり暮らしの無職なのでニートをするわけにはいきません。
かといって就職すると音楽する時間が無い。
僕はTOSHIBAの工場でアルバイトをすることにしました。
そしてひとり暮らしなので、誰にも怒られることなく自由です。
高校までのうっぷんを晴らすかのようにアホなことをたくさんしました。
夜中に麻雀をして音がうるさい!と大家さんに怒られたり。変な葉っぱ吸ってお酒も飲んでないのに超ハイテンションになったり。夜中にバイク盗もうとしてたら通報されて警察にお世話になったり。サイフを拾ってキャッシュカード使おうとして防犯カメラから足がついてまた警察にお世話になったり。
人生でいちばんアホな時間でした。
18歳でひとり暮らしというのは、まわりの人たちからすると大変希少な存在で、僕の家はほぼたまり場になっていました。
常に誰かがいて、なんなら仕事から帰ってきたら誰かがいる、みたいな日が週に3日ほど。
そんな生活が半年ぐらい続いていたある日。
その中のひとりの「Y」が僕が高校時代によく出演してたライブハウスで働き始めました。
Yはいろんなバンドと知り合いになってすごく楽しそう。うらやましくなって、僕もそのツテでライブハウスで働きたいと考えました。
そうすれば自分のバンドメンバー探しもできるし、いろんな繋がりができる。
そして何よりも、僕は高校の時に、そこの店長さんがバンドやりながら音響の仕事(PAといいます)をしていたのを知っていて、そのスタイルに憧れていました。
Yに相談してみたところ、店長さんに話を通してくれて、やる気あるなら1回電話しておいで、と言ってくれました。
僕はその日のうちにソッコーで電話をしました。
そしたら「給料は出ないけどそれでもいいなら明日から見習いとしておいで」と、快く受け入れてくれました。
こうして僕の音楽人生がスタートすることになりました。
とりあえず給料が出ないので、工場の仕事が終わってからPAの見習いをしに行くという生活が始まりました。
毎日毎日休まず欠かさず行って、少しずつ仕事を覚えていきました。
僕はやる気が表に出ない、というかこの時も心は閉ざしていたので、表に出せなかったのだとは思いますが、そういう性格が災いして、やる気を感じてもらえず、「やる気あんの??」って何回も怒られました。
やる気あるから毎日きてるのに…。
そんなことは言えないので、とにかく仕事できるようになってやろう!と歯を食いしばってひたすら毎日通い続けました。
そしたらその姿勢が認められて、半年ぐらい経った頃、ようやくひとりでPAとしての仕事ができるようになりました。
その頃には「音響の人」としてライブハウスに訪れる人たちにある程度認知されていたので、一緒にバンドをやろう、というお誘いがたくさんありました。
そんな中で面白そうなHとCとNの3人と組むことにしました。
こうしてバンド活動を本格的に始めることになりました。
そこらへんの界隈ではわりとすぐ人気者になり、そのままトントンといくかなーと思いきや、いろいろあるのが人生ですよねー。
ボーカルのNは女の子だったんですけども、Nと僕はつき合っていました。
…というより、つき合ってから歌を歌いたいという願望があるのを知って、じゃあボーカルやる?って誘ってみたらやる!ってなったので、HとCに相談したところ、快く受け入れてくれてバンドメンバーになった…といういきさつがあります。
Nは高校時代にイジメを経験していてそのトラウマで薬を大量に飲んだり、自らの手首を傷つけたり、精神的にかなり不安定な状態でした。
僕が仕事行ってる間に何が起きるかわからないので、妹に頼んで一緒にいてもらったりもしていました。ちょっとでも生きることに喜びを味わってもらおうと、夜中にドライブ行ったりもしました。その影響で次の日の仕事中にほぼ寝てたりとかして、僕の体力と精神もそこそこ削られていました。
僕が自分の心が閉じてたことに気づいたのはNがきっかけです。
精神的に不安定で心も閉ざしていたNをみて、じゃあ自分はどうなんだろう?と我にかえった時、「あぁ…自分も心を閉ざしてたんだ…」と。
でもだからといってすぐに心を開けるわけでもなく、それはもうちょっと先の話。
そんな精神的に不安定なNをみて、なんとかできないもんかとアレコレ考えてたどり着いた答えが「結婚」でした。
結婚という肩書きがあれば精神的に落ち着くのではないか?と。
この時僕は21歳、Nは20歳。
早すぎる、と周りの人たちに猛反対されつつも、勢いで振り切って結婚しました。
トコロガ。
結婚してもNの精神状態は何ひとつ変わらず、そのまんま。なんなら結婚したことによって束縛が激しくなっていました。
極めつけはライブ前日の夜に薬を大量に飲んで救急車で運ばれる始末。
どうしようもないのでライブはキャンセルすることに。
そんな僕も一度だけ感情を爆発させたことがありました。
メンバー全員でUSJに遊びに行った時の話。
たぶんちょっとしたことがきっかけだったと思うのですが、それまで溜まっていたいろんな不満が爆発して、ブチギレて公衆の面前でテーブルとかイスとか公共の物を蹴ったり投げたりして暴れ散らかすという、最悪の行為をしてしまいました。
いろんな不満っていうのは、「もっと真剣にやろうや!」っていうことだったと記憶しています。#あんまり覚えてない
でも、その行為のおかげ(?)で、自分の思ってることをぶつけ合って、結果的にそれまでよりも仲良くなったので、その時はよかったなぁと思いました。
そんなこともあって、そこからバンドは確実に成長していって、メジャーデビューの話がちらほら出るほどになっていました。
レコード会社の人とかイベント屋さんとかいろんな大人たちと関わるようになっていって、そうなると「数字」が大きな存在になっていきます。
〇月までに何枚CDを売るとか、〇日のライブに〇〇人動員しなきゃいけない、とか。
少しずつバンドが「仕事」になっていってるんです。そうすると、メンバー間でギスギスした空気が漂い始めます。
そして大事件が勃発し、メンバー間の緊張の糸はプツンと切れ、メジャーデビューに向けてやる予定だった全国ツアーもすべて白紙にしてバンドは解散。
僕のバンド人生はここで終了しました。
ちなみにですが、当時大流行してたアニメのタイアップ曲のオーディションの最終選考まで残ったそうです。
それがホントなのかウソなのかよくわかりませんが、事務所の社長がそんなことを言っておりました。
なにはともあれ、僕はこの時超人間不信になって、いろんな人との関係を断ちました。
Nともこの時すでに離婚しております。
24歳でバツイチになって、新たな人生のスタートです。
整骨院の道
とりあえずパチンコ屋さんでアルバイトをしながら、2年ぐらいひとりで音楽活動をしていましたが、イマイチうまくいかず。ここだ!っていうチャンスはありましたが、何をトチ狂ったのか、それを自ら蹴っていました。
バンドの時にギスギスしてた時に音楽を作るための芸術的な感覚がちょっとおかしくなっていたからです。
そんな状態ではいい音楽が作れるはずもない、と考えて、いったん音楽からは身を引くことにしました。時間が経って感覚が戻ったらいつかまた音楽を作ろうと。
じゃあ何か違うことをして生きようと、いろいろ考えてふたつの選択肢ができました。
それが「教師になる」か「整骨院で働く」でした。
これまで自分勝手に生きてきたので、人のために何かしようと思ってのこの二択でした。
教師になって、これまでの人生でたくさんツラい思いをしてきて、そんな経験を生かしてできるだけ楽しく生きるためにはどうしたらいいかを子どもたちに伝えたい、とか考えてました。
もう一方で、ドラムをやってた時に腰が痛くて通った整骨院で、すごく丁寧に痛くなる原因とかを教えてもらって「こんな仕事もあるんだ」と感動したことがありました。
どっちにしようかと悩んでいました。
そういえば、バイトしてたパチンコ屋さんでおじさまとおばさま連中にすごく可愛がられていて、よくお小遣いをもらったり、ご飯に連れていってもらったりしていて、同僚たちから「マダムキラー」と呼ばれるほど人懐っこいキャラになっていました。
音楽関係の人たちと関係を絶ったことで、開き直って少し心を開くことができて、自分を出すことができるようになっていました。
そんな中、整骨院の専門学校の校長をしてるというおじさまに「こんな仕事してみないか」とバイト先のパチンコ屋さんで声をかけられました。
僕の考えてた選択肢のひとつにこんな形でめぐり会うなんて、これはもうそういう運命なんだと。
僕のたどる道は決まりました。
それから専門学校に行くお金を貯めるために、朝から夕方まではパチンコ屋さんでバイトして、夕方から少し寝て夜から朝まで運送会社の仕分けの仕事をするという、生活を1年間続けました。
そしてその間に僕は2度目の結婚をしていました。
相手は14歳年上の3人子連れ。
女の子2人と男の子1人でしたが、女の子の方は、僕よりも4つと6つ年下でほぼ妹、というカオス状態。
男の子は出会った当時10歳。
その男の子は2歳の時に父親と死別していて、父親がどういうものなのかを知りません。
最初は結婚するつもりはなかったのですが、男の子と家の前でキャッチボールをして遊んでいたところ、その子の友達が遊びに誘おうとやってきて、「この人誰〜?」と僕を指さしてひと言。
そしたら「誰でもいいやん」と、素っ気ない感じであしらっていました。
それを見た僕は、この子に「お父さん」って呼ばせてあげたいと思い、結婚する決断をしました。
そうそう。
この間に僕は左の目がほぼ見えなくなっていて、距離感がまったくつかめない状態になっていました。それでもキャッチボールぐらいはできるぐらいには練習しました。
病院に行ったら「網膜剥離」との診断が下りまして、1週間入院して手術を受けました。
手術をしても治ることはなく、進行を止めるための手術です。
そんなこんなで左目は一生見えるようになることはないそうです。
話を戻します。
専門学校に通い始めたと同時に、声をかけてくれたおじさまの整骨院で働くことになりました。
それだけでは生活できないので、朝整骨院で働いて、昼間に寝て、夕方から専門学校に通って、終わったらまた運送会社で朝まで仕事をする。
そんな生活がスタートしました。
今考えるとなかなかハードな生活だったなーと思いますが、当時はもう必死だったので、それをしんどいと思ったことはありません。
成績はわりと優秀で、学年でTOP10に入るぐらいの成績で卒業して、無事に国家試験に合格することができました。
そして、専門学校を1年ぐらい通ったぐらいの時に2度目の離婚をしております。
20代でバツ2になりました。
国家資格を取得してから1年後、僕は整骨院の院長になりました。
地域のおじさまおばさまに愛されるようになりました。