1716年。
徳川幕府が政権を握る江戸時代も100年が過ぎてだいぶ落ち着いてきたころ、京都でひとりの画家が生まれました。
その名は「伊藤若冲」。
彼はカラフルでド派手な日本画を描くことで知られています。
日本画だけでなく水墨画も描いており、日本の画壇に多大なる影響を与えました。
平成になって人気が爆発して生誕300年になった2016年には日本各地で展覧会が行われるほどの人気っぷりでした。
そんな伊藤若冲の数奇な生涯に迫りたいと思います。
生い立ち
若冲が生まれたところは京都の台所といわれた錦市場の八百屋さんで生まれました。
俳画を確立させた「与謝蕪村」も1716年生まれで、彼らは同い年です。
八百屋には色とりどりの野菜が並んでいて、これが若冲の作品に影響を及ぼした可能性は非常に高いと思われます。
伊藤家は八百屋のほかに不動産収入もあって、生活には余裕がありました。
そんな中若冲は幼少期から絵の才能を発揮していたと言われています。
23歳のとき、父・源左衛門がこの世を去ったのに伴って家業を継いで源左衛門を襲名します。
でも若冲はこのころからすでに絵のことしか興味がなかったので、家業そっちのけで絵ばかり描いていました。
極め付けは2年もの間丹波の山奥に隠れて、その間に詐欺師が実家の資産を騙し取ろうとして3000人もの同業者が迷惑を被った、という逸話が残っています。
この話は作り話の可能性が高いですが、それほどに若冲は絵のこと以外はてんでダメ男だったと言えますね。(笑)
若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と言っていたそうで、ようするに絵を描くことが人生の喜びのすべてで、芸事にも酒にも女遊びにもまったく興味がなかったそうです。
20代の終わりごろ、若冲は本格的に絵を描き始めます。当時画壇のトップに君臨していた狩野派の門を叩いて中国画の模写に取り組みました。
当時の狩野派はひたすらお手本どおりに絵を描くことを強いられていたので若冲にとってはそれが面白くなく、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と、狩野派の画塾を辞めて独学で絵を学ぶことを決意します。
京都には中国の名画を所蔵するお寺が多くあったので、模写をするためにいろんな寺社を訪れました。
絵師として自立
若冲は40歳ぐらいまでは家業をこなしながら絵を描いていましたが、絵に対する想いがドンドン強くなっていき、弟・白歳に家業を譲って隠居して名前も「茂右衛門」と改めます。当時は40歳といえばすでに「初老」と言われていた時代です。
弟はそれを受け入れて兄を経済面でサポートし続けます。
■「神気」が宿る絵
隠居した若冲は相国寺に移り住み、1000枚ともいわれる模写やら、ひたすら絵ばっかり描く日々を送っていました。
そんな中、「絵から学ぶだけでは絵を超えることはできない」と、目の前の実物を描けば真の姿を表現することになるのでは?と考えるようになりました。
生き物の内側に「神気(神の気)」が潜んでいると考えた若冲は庭で数十羽の鶏を飼い始めます。でもすぐに写生をすることはなく、鶏の生態を朝から晩までひたすら観察し続けました。
そして1年が過ぎ、もう見尽くしたと思ったとき、ついに「神気」を捉えて筆が勝手に動き出したといいます。若冲の作品に鶏が多いのはこういうことだったんですね。
鶏の写生は2年以上も続いて、その結果、鶏だけでなく、草木、岩にまで「神気」が見えてあらゆる生き物を自在に描けるようになりました。
天才画家として
このころから若冲は代表作になる「動植綵絵」シリーズに着手します。身の回りの動植物をモチーフに描いて完成まで実に10年もの時間がかかりました。
その大きさはなんと30幅(1幅はだいたい35センチぐらいなのでおよそ10メートル!)にもなる大作です。
京都ではこのころ、12歳年下の画家・円山応挙が頭角を現していました。
応挙は写実主義の画家で、若冲に引けを取らないほどの天才っぷり。その人気は絶大で門弟1000人の円山派が京都を席巻していました。
それに対して若冲は一匹狼の画家で、弟子もとらず、朝廷や政権にコネもなく孤高の天才画家として人気を二分していました。
当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で円山応拳に次いで2番目に記載されるほどの高名な画家になりました。
晩年
若冲が72歳のとき、「天明の大火」という不運が彼を襲います。
この京都を火の海にした大火事で家やら画室やらすべてが灰になり、大阪に逃れました。
私財をすべて失った若冲は生活が貧困に陥ってしまいます。
さらに76歳のとき、ずっと支援してくれていた弟がこの世を去りました。
そこで若冲は生涯ではじめて生活のための絵を描くことになります。米一斗(約15キロ)と絵1枚を交換していたことから「斗米菴」という名前もあります。
でもそもそも無欲な男なので貧困は大して苦にはならなかったようで、悠々自適な生活を送っていたようです。
最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練ります。
若冲が下絵を描き、石工が彫り上げた五百羅漢像は住職と妹の協力を得て10年弱で完成しました。
そして1800年、84歳で生涯の幕を閉じました。生涯独身を貫きました。
若冲の作品
動植綵絵
孔雀鳳凰図
釈迦三尊図
実は若冲は日本画だけでなく、水墨画も描いていました。
超繊細な表現の日本画とは一線を画したデフォルメ感の強い作品が多いです。