【水墨画家・狩野探幽】江戸狩野派250年の礎を築いた若き天才

1602年。

後に300年ぐらい続く江戸幕府が産声を上げようとしていたとき、ひとりの水墨画家が一足先に産声を上げました。

その名は「狩野探幽」

室町時代、狩野正信によって始まった「狩野派」という画家集団。その後400年の歴史を誇る狩野派ですが、天才・狩野永徳の死後は一時期停滞していました。その停滞を破り、再び狩野家の名声をたかめたのが探幽です。

幼いころから才能を発揮してわずか16歳で江戸幕府の御用絵師となった探幽は、狩野派一族の絵師としての地位を不動のものにしました。

探幽は水墨画だけじゃなく、国の重要文化財にもなっている日本画もたくさん残しています。

そんな探幽の生涯に迫りますーーーーー。

 

生い立ち

 

探幽は1602年、京都・山城国で生まれました。父は狩野孝信、母は佐々成政の娘で、父・狩野孝信は狩野永徳の次男で探幽は永徳の孫にあたります。

狩野一族は室町時代から幕府御用達の絵師集団ですが、このときはまだ幕府が京都で無類の存在感を示していました。

探幽も幼いころから京都で絵師として英才教育を受けて育った、絵師のサラブレッドです。

その才能を早くから発揮していて、数々の伝説的な逸話が残されています。4歳ですでに「天才」と評判だったと言われています。

11歳で徳川家康に謁見し、13歳のとき将軍・徳川秀忠の目の前で絵を描いて、「狩野永徳の再来」と賞賛されました。

そしてその3年後、わずか16歳で京都から江戸に招かれて江戸幕府の御用絵師になっちゃったもんですから、相当な早熟っぷりです。

 

17歳のときに父・孝信がこの世を去り、父のあとは5歳年下の尚信が継ぎます。

17歳のときに5歳年下なので12歳です。なんなんだこの狩野家の早熟っぷりは。

その早熟っぷりはとどまることを知らず、19歳で江戸城鍛治橋門外にめちゃくちゃ広い屋敷をもらい、完全に江戸に移住して狩野家を分家して、鍛治橋狩野派と呼ばれるようになります。

尚信も京都から江戸に移住して木挽町狩野派を形成します。

さらには探幽が21歳のとき、10歳年下の弟・安信に京都の狩野家を継がせます。

そして安信も江戸に移住して中野狩野派になりました。

そろそろ混乱しそうなのでやめときますが、狩野家3兄弟は全員幕府の御用絵師になって、幕末まで続く狩野派の礎を築くスーパースター揃いでした。

こんな感じの家系図です。

今でいうと、歌舞伎の中村一族みたいなノリです。

若くして御用絵師までのぼりつめた探幽ですが子にはなかなか恵まれず、実子が生まれたのは探幽が50歳のときでした。

 

それまでは刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信を養子にもらいました。

益信は洞雲とも言われていて、幼いころから絵が好きで才能を認められて、11歳で探幽の養子になりました。

晩年、68歳ごろから脳血管障害を患って制作活動に支障をきたすようになり、1674年、72歳で生涯を閉じます。

 

作品

 

探幽は幼少期は父・孝信の影響を色濃く受けていて、20代のころはおじいちゃんである永徳の影響を受けていました。

30代になると探幽オリジナルが完成して、いろんな作品を描きました。

◾️松鷹図

探幽が24歳のとき、京都の二条城二の丸御殿に障壁画を描きます。これは後水尾天皇が行幸のときに大改築された際に描かれたもので「松鷹図」とも呼ばれています。国の重要文化財に指定されています。

 

◾️四季花鳥図

探幽32歳。名古屋城・上洛殿三の間の障壁画。徳川家光が上洛の途中で立ち寄ったときの迎賓の部屋として新築されたときに制作されました。

このころには探幽オリジナルの作風になっていて、最高傑作とも言われています。

国の重要文化財にも指定されています。

 

◾️四季松図屏風

探幽40代前半の作品と言われています。正確な年代は残念ながらわかっていません。4本の松の木は左からそれぞれ幼少期(春)、青年期(夏)、壮年期(秋)、老齢期(冬)を表していて、人生の4つの時期を四季の松で表現しています。

こちらも国の重要文化財に指定されています。

 

◾️桐鳳凰図屏風

探幽55歳ごろの作品。

四代将軍・徳川家綱の婚礼のために制作されたと言われています。

 

探幽の画風は余白の使いかたが絶妙で、それを後世の画家たちがこぞって模倣していて、これが狩野派の画風と位置付けられるようになりました。でも模写が繰り返されるうちにその絶妙な余白の緊張感みたいなものが失われてしまって、それが狩野派を徐々に衰退させてしまうことになります。

 

まとめ

 

狩野探幽はこれだけ素晴らしい作品を残してかつ、江戸狩野派の礎を築いた人物にもかかわらず、あまり記録が残されてなくてわりと謎の多い画家でいらっしゃいます。

その要因はもしかしたら近代に入ってから封建的な画家集団を作った張本人として歴史から抹消してしまおう、みたいな動きがあったからなのかもしれません。

この時代はお家柄に重きを置く封建社会だったので、狩野家もそれに倣って封建的な画家集団になっていきました。政治ならまだしも、絵はそれぞれの「個性」が大事な芸術です。

狩野一族は粉本と呼ばれる下絵を模写させて修行を積ませていたので、そこで弟子たちおよび子どもたちの個性が奪われてしまったのかもしません。。。