水墨画家・横山大観の豪快な生き様と繊細な作品:波乱万丈な人生

1868年、明治元年。

日本は大きく生まれ変わろうとしていました。

幕末の動乱、大政奉還、明治維新--------。

そんな激しく時代が動いていた最中、明治政府が誕生しました。それとときを同じくして生を受けたひとりの水墨画家がいました。

その名も「横山大観」

彼は明治、大正、昭和、3つの時代を駆け抜けた近代日本画壇の巨匠のひとりです。

彼をひとことで表すなら「豪快」。写真をみるとその豪快さが伝わってきます。

御年89歳まで長寿を全うしました。

そんな近代日本美術界の巨匠・横山大観の波乱万丈の人生を読み解きます。

 

生い立ち

 

大観は水戸藩士・酒井捨彦の長男として常陸国水戸で生まれました。幼名は酒井秀松といいました。のちに秀麿に改名。

大観10歳のころ、父の内務省への転勤で一家は上京します。

10代の半ばごろから絵画に興味を持つようになり、父のところへ出入りしていた今泉から東京美術学校の話を聞いて画家を志すようになり、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学びます。

20歳のとき、母方の縁戚の横山家の養子になりました。と、同時期に東京美術学校(現在の東京藝術大学)を受験することを決めます。でも。当時は画家は職がなかったので父は大反対。強引にことをすすめました。

受験のときに300人ぐらいいてその中の200人ぐらいが大観と同じ「鉛筆画」で受験します。しかも彼らは有名な師に何年も教わってきた、と聞いて「これでは勝てない」と判断した大観は試験の直前に鉛筆画から毛筆画に試験の変更を申請したというからとんでもありません。

それで合格してしまっているので、このときからすでに「豪快」っぷりが発揮されています。

東京美術学校で師との出会い

 

東京美術学校に第1期生として入学した大観は恩師・岡倉天心、橋本雅邦と出会います。橋本雅邦はかの有名な狩野派の末裔です。


岡倉天心

天心に「西洋に劣らない写生を勧めつつ、日本の良いところは失わないように」との指導を受けた大観はその教えを生涯忠実に守っていきます。

岡倉天心は学校卒業後もずっと付き合いが途切れることがないほど慕っていました。

卒業制作「村童観猿翁」は恩師・橋本雅邦と同期の生徒たちをモチーフに狩野派の画風で描かれていて、成績はトップの得点を獲得したそうな。


橋本雅邦

日本美術院

 

東京美術学校を卒業すると大観は京都に移って京都市立美術工芸学校の教員になり、仏画の研究を始めます。このころの研究が後の作品「無我」などに影響を与えたのかもしれません。

しばらくしてから東京に戻り、母校の助教授に就任しましたが、そのわずか2年後に校長・岡倉天心を排除しようという運動が起こり、結局天心は美術学校から追い出されてしまいます。

天心を師と仰ぐ大観、そのほか数名もこれに従って職を辞めて、同じ年に天心が設立した日本美術院に参加しています。

朦朧体

 

横山大観といえば独特のタッチの朦朧体です。

美術院の活動の中で菱田春草とともに西洋画の技法を取り入れた新たな画風を研究していました。

そんな最中、恩師・岡倉天心が「空気を絵で表現する方法はないものか」という言葉を発しました。その言葉をきっかけに誕生したのが輪郭線を極端に抑えた「朦朧体」です。

これは、薄めた墨をさらに紙の上で伸ばしてモヤがかかったような表現になって、きれいなグラデーションになるという、今までの日本画にはない革新的な描法でした。

ところがこの朦朧体、当時はさんざん批判を浴びたようで「朦朧」という言葉も意識が朦朧とするという揶揄で、描いてるんだか描いてないんだかわからない、勢いがないという、決して良い意味での言葉ではなかったのです。

それまでの日本画の伝統とは真逆の画風だったので、新しいものを脊髄反射的に拒否する保守的風潮の強い日本の批評家から大バッシングを浴びましたとさ。

活動の場を海外へ

 

そんな日本での活動に行き詰まりを感じた大観は菱田春草と共に、インドのカルカッタ、アメリカのニューヨーク、ボストンで次々と個展を開き、各地で高い評価を得ました。

特にアメリカではこの革新的な画風は「神秘的だ」と大流行。

この行動から読み取れることは「日本でダメなら海外に行ってやってみる」という機転が利いてるところ

普通に考えたらそんな大バッシング浴びちゃうと尻込みしちゃって自分の画風を変えてしまいそうなものですが、大観はそれを真正面から受け止めて、じゃあ違う場所ならどうなんだろう?的な実験をしてみてそれで判断してみよう、というなんとも好奇心旺盛な人なんだなぁと。

その後もヨーロッパに渡ってロンドン、ベルリン、パリで展覧会を開き、「東洋のホイッスラー」と称賛されました。

そんな欧米で高い評価を得たもんだから、日本でも評価され始めてしまいました。

日本人の得意技「手のひら返し」です。

ここから大観は文部省美術展覧会の審査員をやったり、琳派ブームを巻き起こしたり、日本での画家としての地位を不動のものにしていきます。

1910年に岡倉天心がボストンに渡ったため、日本美術院が事実上解散しました。

その3年後に今度は岡倉天心が亡くなり、彼の意思を引き継ごうと大観が下村観山、木村武山とともに美術院を再興しました。

このことからも、岡倉天心が大観にとっていかに大きな存在であったか、かつ、大観が情に厚い男だったということを窺い知ることができます。

 

横山大観のエピソード

 

酒豪

大観はこの写真をみてもわかりますが、恐ろしいほどの酒豪でした。#写真だけで判断してはいけません

食事はちょびっとの野菜だけであとは1日に一升もの酒で生活していました。

にもかかわらず、この時代には珍しく89歳という長寿を全うしてます。

あれですね。迷いなんか一切なかったんでしょうね。。。笑

でも最初から酒好きだったわけではなく、むしろ若いころは全然飲めなかったといいます。お猪口2、3杯で真っ赤っかになってしまうほど。

大観の師・天心が1日に2升はいけるほどの酒豪で、「酒ぐらい飲めずにどうする」と大観を叱咤しました。それから大観は飲んでは吐いてを繰り返しながら少しずつ飲めるように訓練していました。

そんなところでも天心さんの影響力の大きさに感服です。笑

 

親友

東京美術学校の同期生の菱田春草は常に行動を共にしていた無二の親友で、『春の朝・秋の夕』『帰路、入船』などを合作していました。

でも春草はわずか36歳という若さでこの世を去っています。

大観は嘆きました。

そして自らが日本画の巨匠と称されるたびに「あいつ(春草)が生きていたらおれなんかよりもずっと上手い」と口にしていました。

 

大観を襲った悲劇

 

「難苦に満ちた長い歳月、特に私にとっては明治35年から大正2年までの12年間に8人の最も親しい者が死別しました。

その8人というのは父の捨彦、第一の妻文子、娘の初音、弟の治桜、第二の妻直子、妹のなつ子、親友の菱田春草君、恩師の岡倉先生です。

わずか12年の間に8人の親しい者に永別した当時の私の生活、それこそ全く悲傷から悲傷への連続で、心の痛みはほとんど絶える間もありませんでした。しかも、この間の私は決して順調ではありません。

順調どころか逆境の只中で、世間からは朦朧派(もうろうは)のなんのと呼ばれ、非難攻撃の矢面に立たされていたのです。

心の悩み、加ふるに、物質上の苦しみ、それにあえぎながら、繰り返される骨肉、近親の永別に、なんとも例えようもない悲しみのうちに、自らの心に鞭たねばなりませんでした。」

 

大観本人の言葉です。

 

大観の代表的な作品

 

『村童観猿翁』

東京美術学校の卒業制作です。

猿回しの老翁を恩師・橋本雅邦に見立てて11人の村童は同期卒業生の幼いころの顔を想像して描いたもの。

『無我』

『屈原』

恩師・岡倉天心が排斥運動によって東京美術学校を追い出されて日本美術院を創設しました。そのときの天心と中国の楚の政治家「屈原」を重ね合わせて描いた作品です。屈原は詩人でもあり、敵国・秦の謀略を見抜いて自国・楚の王に進言しましたが受け入れられず、絶望した屈原は入水自殺しました。

天心の心境が屈原と重なって見えたのでしょう。

『迷児』

大観が語っています。

「当時の日本の思想界というか、信仰界というか、それはひどく動揺混乱しておりまして、孔子の崇拝者もあれば、耶蘇教信者もあり、仏教信者あれば、老荘信者もあるというふうで、信仰の帰趨(きすう)も判じ難かった。その世相を示唆したつもりで、孔子・キリスト・釈迦・老子の四聖の間に日本の一幼児をつれて来て、『迷児』という題にしました。」

この絵が描かれたのは明治35年。当時の日本は幕末の動乱から急速に近代化していく真っ只中にあって、混乱を極めていました。

そんな混乱した「迷い子」である日本人をモチーフにいろんな国、文化の神様が声をかけて助けようとしてる。

当時の世相を見事に表現しています。

『流燈』

大観がインドから帰国して、直後に描いた作品です。インドの影響を色濃く反映させていて大観には珍しい女性をモチーフにしています。

『白衣観音』

この作品は100年近く行方が分からなくなっていました。

上の流燈と同じくインドの影響が色濃く反映されています。これは朦朧と揶揄された作風を脱却しようと試行錯誤を重ねた跡がうかがえます。

やっぱり大観も人間なんですね。

『彗星』

1910年4月20日、ハレー彗星が地球に最接近しました。それを大観はみていて、そのときの様子を作品にしました。

夜空を見上げるとものすごく長い尾を引いていたといいます。

『生々流転』

40メートルにも達する大観の作品の中でも類をみないぐらいの超大作です。

大正時代、大観は墨に魅せられて数々の名墨を集めました。そして放った言葉は「日本画家は究極は水墨画を描きたい」。

その中のひとつ、徳川家から譲り受けた特別な墨で描いた水墨画です。

雲から落ちた一滴のしずくが小川になり、やがて大河になって海に注いでまた水蒸気になって雲となる。

水の一生を描いていて、最後には水蒸気とともに龍が一匹上がっていくというなんとも神秘的な作品です。

富士山

大観といえば富士山といわれるほど数多くの富士山を描いています。生涯に描いた富士山は700点以上にものぼります。

まとめ

 

大観の生き様は豪快で波乱に満ちたものでした。豪快さのその裏には繊細な筆使いとか心配りとかがあって、その細やかさが作品の至るところに出ています。だからこそたくさんの人を引き込む力があるんだなぁと思います。

大観の作品はあちらこちらに散らばっているのでぜひ実際に見てみてください。

大観は生前から「私の死後、自宅は個人財産ではなく、公的な財産として日本美術界に役立ててほしい」」と強く訴えていました。

昭和51年11月に大観の念願かなって一般公開されました。