父ちゃんの転勤ふたたび。
今度は大阪に行くんだって。
そもそも3年間だけっていうことをこっちに来る時に聞いてたものの、そんなことはとっくに忘れていました。
いざそうなるとせっかく仲良くなった友達とも離れ離れになってしまいます。
この約12年間、僕の人生はおねしょに始まり、その他もろもろあってやられていたメンタルがずいぶん落ち着いてはいました。
バスケに夢中になれていたからです。とにかくバスケが楽しかった。ここまで夢中になれるものに出会えたのは絵を描くこと以来。
その絵は残念ながら挫折してしまいましたが、それを乗り越えてバスケに夢中になれたのは、それだけバスケが楽しかったっていうのもありますが、ようやく心の拠り所ができてきたからです。
宝塚で感じた人の温もりを、ここつくばでも少し感じ始めていた矢先、またそれがゼロになってしまう。
こうなることがわかってたから父は単身赴任で行くと言い張っていたのか…と。
この時の転校がいちばんキツかったのを今でも鮮明に覚えています。
中でもキツかったのは、僕だけ違う中学校に行くのに、なぜか僕もみんなと同じ中学校の入学説明会に参加したこと。
他のみんなは「部活何入るー?」みたいな会話をしてワクワクして楽しそうに話しています。でも僕はその輪には入れません。なぜならこの中学校に通えないから…!
僕の心の中は超どんでん模様です。
あれはかなりメンタルをえぐられました。
1回盛り上がったものがまた落とされるとその時の消耗はギャップがある分激しくて、もともとそこにいるよりもはるかにマイナスに落ちた感じがします。#伝わって
小学校の卒業式が終わると、その足ですぐに大阪に向かいました。道中、すごく気が重くて、何回「行きたくなーーい」と心で叫んだことでしょう。
そして大阪にたどり着き、中学校に入るための入学手続きをすませると、何やらクラス分けのためのテストがあるんだとか。
僕の通った中学校は3つの小学校から生徒が集まってたので、クラス数がすごく多かったのです。
テスト当日は小学校ごとに教室が分かれていて、僕は転校生だけが集まる教室に、僕と同じような中学からの転校生が20人ほど集められていました。
でもものすごいアウェイ感は否めません。
つくば市の時に感じた孤独感とはまた全然違う、かなりレベルアップした孤独を感じていました。
それもそのはずで、僕はもう12歳。
いろんなことを考えるお年頃です。
3年前の自分とは全然違って、いろんなことが成長しています。
そりゃー感じ方も変わるわさ。
そんな中、すごく明るく話しかけてくれた男の子がひとりいました。
その名もSくん。
僕の後ろの席に座っていて、同じ立場なのにすごく明るくて羨ましい限り。
いろいろと話を振ってくれて、同じクラスになれたらいいねーとか話したりして、僕は少し救われた気がしました。
話をしてて違和感を感じました。
そういえば僕は関西に戻ったんだ、と。
ここは大阪なのでみんな関西弁をしゃべっています。
つくばにいる時にもお正月なんかは大阪の親戚の家に集まったりしてて、その時は関西弁を聞いていました。
てゆーか。
母はつくばにいる3年間も矯正されることなくずっと関西弁でしゃべっていたので、聞き慣れているはず。
だけど、同年代の人たちが関西弁をしゃべってるのを聞くと、やっぱり全然雰囲気が変わるというか、いつも聞いてるものとは全然違うものに聞こえます。
この時、僕はまだ標準語脳になっていたので、そのあたりもより一層孤独感を深めた原因だったのだと思います。
なんとか友達候補がひとりできて、一筋の光をみたものの、それから入学までの数日間、僕は原因不明の喘息みたいな発作に襲われて呼吸困難におちいっていました。
特に夜になるとひどくて、寝ることもままならず。
よっぽど精神的に追い込まれていたのだと思います。
そんな危うい精神状態でしたが、当然、親にそんなことは言えるはずもなく、そんなことを話せる友達もいない。
これから僕はどうなっていくのでしょう?
不安で不安でたまりません。
せっかくつくばで人の温もりを味わって少しずつ人の心を取り戻していってたのに、またゼロからのスタート。
これはかなりキツい。
そして迎えた入学式の日。
まずはクラス発表がありました。
入学前テストの時に少し仲良くなったSくんは、残念ながら違うクラスになってしまいました。
これだけでもかなりショックで、僕がみていた一筋の光がどこかに消え去ってしまいました。
トボトボ自分のクラスの教室に行き、誰も知らないところでポツンとひとり。
40人ぐらいいたと思いますが、その中でひとりだけ浮いてるような感覚でした。
この時はだいぶ関西弁が戻ってはいたのですが、それでも意識して喋らなければ標準語に戻ってしまいます。
それをまわりの人が聞いたらどう感じるんだろう?とか、余計なことを考えてしまいます。
また「あの時」のようにバカにされてしまう。
そんなことを考えていると余計にしゃべれなくなってしまい、もう最悪の悪循環。
今ここに僕の味方になってくれる人はいない。
ものすごく苦しくなって、いても立ってもいられなくなった僕は唯一の味方であるSくんに助けを求めに彼の教室まで走りました。
ところが。
Sくんはすでに昔からここに住んでいたかのように、彼のまわりにはたくさんの人だかりができているではありませんかっ。
Sくんの明るい性格なら人が集まるのも無理はない…とかいろいろ考えながら話しかけてみたものの、彼はそんな僕をすごく冷たくあしらいました。
たぶんそんなつもりは1ミリもなかったんだと思います。
彼だって僕と同じ立場です。
必死に友達を作ろうとしていたのかもしれません。
でもその時の僕にはそんなことを考える余裕はありません。突き放された感じがして、完全に希望の光が絶たれました。
もはや頼れる人はおらず、ドン底に突き落とされました。
それ以来、僕はSくんに話しかけることはありませんでした。
またトボトボと自分のクラスに戻り、待ってても仕方ない、自分から話しかけて友達作らないと!とナゾの奮起。
極限まで追い込まれるとものすごい行動力を発揮するようで、 後々の人生でこれがすごく僕を救ってくれることなるのですが、この時の僕はまだそんなことを知りません。
ただただひとりになりたくなくて必死だっただけです。
行動はしてみたものの、いきなり上手くいくわけもなく、皆さま「こいつ誰やねん?」っていう目でみてきます。
そりゃそうですね。
ただでさえ知らない人が多い中、突然ひとりで話しかけてくるやつなんか誰も相手してくれないですよね。
しかも関西弁なんだか標準語なんだかよくわからんイントネーションでしゃべってるし。
皆さま冷たくてホントに心が折れそうです。。。
アレー?
関西ってこんなに冷たかったっけなー?
兵庫県と大阪府で地域差とかあるんかなー?
それとも年齢的なものなのか…?
答えは出ませんが、少なくともこの時感じたことが原因で兵庫県出身と言い張りたいのもあるのかなと。笑
今までに感じたことのない孤独感の中、何人かは僕の存在を認識してくれていました。
ありがたや。
そんな絶望的な状況の中、唯一心の支えになってくれたのがバスケットボールでした。
それがなかったとしたら、かなり危なかったなーと思います。
肝心なのはどうやって入部するのか???
友達がいればその友達と一緒になって先生のところに聞きに行ったりできますが、いかんせん友達もおらず、先生はなんだか怖いので、ひとりで聞きに行くのはすごく勇気がいる。
とはいえ。
ここも待ってても誰も助けてはくれないので、意を決して先生に聞きに行きました。
そしたら仮入部してから入部届けを出すんだってさ。
さて。
仮入部。。。
さすがにこればっかりはひとりで行く勇気が持てず。
誰かひとりでも同じようにバスケ部に入る人はクラスにいないかしら?と話しかけてみたものの、ひとりだけ「おれもバスケ部入るよ!」って言ってくれました。
その人の名前はYくん。
これでホッとひと安心。
そして仮入部に行く当日。
Yくんと一緒に行こうと声をかけると、
「え?おれバレー部入るねん!ほんじゃ!」と言われ、頭の中が真っ白に。
………は……???
なんで言ったん???
なんでおれもバスケ部入るよゆーたん…?
もう真っ白になった僕の頭の中は一転、大パニックを起こしております。
…と同時に精神的にさらにドン底に落とされました。
もうヤバい。
生きていけるかしら。
とりあえずその場はなんとかひとりで仮入部に行ったみたいですが、ほぼ記憶にありません。
よっぽどショックだったのか、その後のしばらくのことを覚えてないのです。
どうやってバスケ部に入ったのか?
ついに極限の極限まで追い込まれてしまったD少年。
それでもバスケだけは頑張ろう!と心に決めていたので、なんとか学校にも毎日通うことができました。
これでもし部活がなかったら間違いなく学校には行ってない。
……いや、どうだろう。
そんなことしたら親に怒られる…。
それはそれでまたメンタルがやられる。
ある意味そっちの方が酷いことになってしまう可能性が…。
どっちみち、八方塞がりですわ。笑
バスケがあってよかった。
住めば都ってことわざがありますが。
時間の経過とともに大阪生活にもちょっとずつ慣れてきました。
でもそれはメンタル的には全然落ち着いてなくて、相変わらずドン底のままです。
それでも半年ほど経った頃にはしゃべれる友達が何人かはできて、学校に行くこと自体は怖くはなくなりました。
そしてちょうどそんな時に何かが起こるのが僕の人生なのです。
案の定、重大な事件が僕を襲いかかりました。
ヒザが痛くて走ったり跳んだりできなくなったのです。
成長痛みたいなやつで、普通に生活するのには差し支えないものの、バスケのような激しいのになると激痛が走って動けません。
せっかく今までがんばってきたのに。。。
こんなところでつまずくか…?
神様がいるとしたら相当僕のことがお嫌いなのかしら…?
と、思ってしまうぐらい、あまりにも立て続けに何かしら起こる。
バスケみたいな激しい動きをしなければ痛くないので、病院にも行かず、自然に良くなるのを待つことにしました。
膝の痛みの正体は「オスグッド・シュラッター病」というやつらしいです。
成長期の柔らかい骨が激しい運動によって引っ張られすぎて痛みが起こるとゆー。
酷い時は骨の形が変わってそのまま固まってしまいます。
膝がそんな状態なので、そこから僕は半年ほど激しい運動をすることができず、部活もほぼ見学で、すごく悔しい思いをしました。
それでも見学には行ってたのがえらい。笑
みてるのがツラかったけども。
でもその悔しさをバネに頑張れた。
さらに追い討ちをかけるように、またプチイジメが僕を襲います。
今度はジャイアン的なヤツが現れて、僕を何かと目の敵にしてパシらされたり、軽く暴力もあったりと、程度は軽いといえど、イジメにあっていました。しかも同じバスケ部のヤツだったから余計にタチが悪い。
小4の頃の苦い思い出がフラッシュバックして、その時に負った心の傷がさらにえぐりにえぐられてしまいます。
せっかく慣れてきてちょっと落ち着きかけていたところにそんな横ヤリが入り、またメンタルがドン底に。笑
それでもなんとか踏ん張って、2年生になった頃にはイジメもおさまり、ヒザも復活。がんばって必死に練習して、ひとつ上の代が引退する頃には、レギュラーを獲得していました。
そんなに強いチームではなかったですが、ハンデを背負いつつもレギュラーになれたのは、僕の中ではすごく財産になっています。
頑張れば誰かがみてくれているんだ、と。
そんなこんなでいろいろありつつも、バスケがあったのでなんとか中学3年間マジメに通うことができました。
でもこの3年間の記憶はほぼありません。
っていうのも。
今まで住んできたどこよりも人間が冷たいと感じたのです。
宝塚、伊丹、つくばと移り住んできましたが、どこも人が温かくて、僕の心は時間が経つにつれてその地域の人たちに馴染んでいった感じがして、少しずつ落ち着いていきました。
それが地域差によるものなのか、年齢的なものなのかはよくわからないですが、大阪では温かいと感じたことが一度もない。
単に僕の心がもうすでに限界を突破してたからなのかもしれない。
何にしても、僕の心はずいぶん冷めきってしまってて、この3年間生きてる感覚が全然ありませんでした。
中学を卒業する頃には完全に心の扉は閉じきっていたと思われます。
果たしてこの先どうなっていくのでしょう?