夜中にひとりでふと思い立ち、生まれ育った場所、「宝塚」の家があった場所に行きました。
確か夜中2時とかだったと記憶しています。
原付バイクを1時間ぐらい飛ばして。
しかも学校の制服のまんま。
この時の記憶は正直あまり残っていません。
でも僕が生まれた家やまわりの様子は全然変わってなくて、当時のまんま残っていました。
10年ぶりぐらいに訪れた、自分が生まれた場所はずいぶん小さく感じました。
あぁ…僕はずいぶん大人になったんだな…と。
家の前の道路とか、よくみんなと野球をしてた交差点とかもすごく狭く感じて、ホントにこの場所で育ったのか?と疑いたくなるほどでした。
でも確かに住所は合ってるし、写真と同じ景色だし、間違いなく自分が生まれ育った場所が目の前に広がっています。
心を閉ざしてしまってから、いろんなものを真正面からみれなくなっていたのだと思います。
この場所に到着して、生まれ育った家を見て。
幼かった頃は何も考えず、無邪気に笑ってたこととか、虫ばっかり追いかけてたこととか、なんかホントにいろんなことを思い出して、僕はその場で大号泣しました。
本来の自分をココに置き去りにしてしまった気がして。そんな自分がすごく惨めに思えて。
そんな時間に制服姿の高校生がひとりでウロウロしてるから通報が入ったのかもしれません。
警察の人がきて「兄ちゃん何してんねん?」と、僕に声をかけてくれました。
事情を説明すると、理解してくれて「頑張りや!」と優しく励ましてくれました。
見ず知らずの、今日初めて会った警察の人でしたが、励まされたことで僕は少し元気が出ました。
この宝塚に行ったことは、いつか行きたいとか思っていたわけでもなく、自分でもまったく予測不能の思いがけない行動でした。でも何も考えず、自然とそこに足が向いたのは一種の帰巣本能的なものが働いたのかもしれないなーと。
でも。たまたま原付バイクでも行ける距離にいたからいいようなものの、これがもし北海道とかだったらどうしてたんだろう?とか考えてみたりしたけど、そんなことはなってみないとわからないのでもういいやと思いました。
幼い頃に住んでた場所に行くことで、昔の自分に戻りたかったんだと思います。わがままに生きれてた自分に。まわりの目なんか気にせず、自由奔放に生きれてたあの頃の自分に。
それがホントの自分だと気づくのはもうちょっと先のお話。
それ以来、僕はこの地を何度か訪れて昔の自分に立ち返るということをするようになります。
少しだけ元気が出たとはいえ、精神的にドン底なのは変わりありません。
とりあえず、その直後ぐらいにもう1回停学くらいました。
3回目の停学は期限が定められておらず、いつシャバに帰ってこれるかわかりません。
いわゆる「無期停学」というやつです。
この時は1ヶ月ぐらい他のみんなとは完全に別行動で、誰とも会わずに過ごしました。
それだけ長い期間、停学になった生徒は珍しくて、先生たちの間でウワサになっていたのでしょう。
ひとりで広い教室の中でひとりポツンと課題をやっている最中にいろんな先生がやってきました。
中には1回も関わったことないようなオマエ誰やねんって先生もいました。
で、ドン底の僕に響きまくるありがたい話をたくさんしてくれたと思うのですが、全然覚えておりません。笑
だいたい皆さん諭すように優しく慰めてくれた気がします。
その中でバスケ部の顧問の先生も来てくれて、いろんな話をしてくれました。
僕的にはバスケ部は1年の終わりぐらいからまったく顔を出さなかったので、気まずくて仕方なかったのですが、そんなことは意にも介さず、ただただ僕のことを心配して励ましてくれました。
もう、申し訳なさすぎて顔を上げれませんでした。
そしてそんな僕にさらに追い討ちをかける言葉を吐いてくれました。
『オマエには期待しとったんやけどなぁ……』
こんな言葉をかけられたら、なんてことをしてしまったんだろう、という後悔と、期待してくれてたんだ…っていう嬉しさと。
すごく複雑な気持ちになりましたが、この言葉を聞いた瞬間からその後の記憶がありません。
おそらく泣き崩れたか、恥ずかしすぎて記憶を削除したか…。
でも、この短いけどすごく重みのある言葉は今もハッキリと僕の心の中に残っていて、心の支えにさせてもらってます。
感謝しかありません。
そしてもうひとり。
僕の高校生活の中で忘れられないのが3年生の時の担任「M」先生。
女性の先生で、オカンみたいな存在でした。
3回目の停学になった時、僕はかなり自暴自棄になり、物に当たるわ、人に当たるわ、相当荒れまくっていました。
そして何をトチ狂ったのか、理科室に大きなテレビとビデオデッキがあって、それをパクってやろうと考えました。
ビデオデッキはカバンに入れて簡単に持って帰ることができました。
テレビはデカすぎてさすがに無理かなーと思いきや、謎のキレが冴え渡って、夕方誰もいない時間帯に教室から学校の外に出しておいて、さらにみんなが帰ったであろう時間帯を見計らって、農作業で使う一輪車に乗せて家まで運んで大成功。
なにをやってんだかホントに。
反省が感じられん。
結局そのテレビは持ち帰ることには成功したものの、一輪車で運んでる時に落としたりしたのもあってか、電源は入るものの画面には何も映らず、廃棄処分。
なにをやってんだか。
もし過去を消せるとしたら、この部分だけは消し去りたいぐらい恥ずかしい。
もうこの時はいろんなことがありすぎてゴチャゴチャになって頭が錯乱状態にあったのだと思われます。
別にそんなもの持って帰らなくても家に自分のやつあったし。
ただただかまってほしいだけだったのかもしれません。
でもみつかったらそれはそれでまた停学延びるし…。
ヘタしたら退学だし。
ホントに何がしたかったんでしょう。
そんな僕を一生懸命なだめて落ち着かせてくれたのがM先生。
停学中も何回も何回も僕のところに足を運んでくれてたくさん話をしてくれました。
そうしてるうちになんとか僕の心も落ち着いていって、M先生には少し心を開くようになり、荒んでた心がほんの少しだけ浄化されました。
僕の進路のこともすごく親身になってお世話してくれて、高校を卒業してからも交流があったのはこのM先生だけ。
こんな話してたら会いたくなってきた。