ようやく伊丹市の生活に慣れてきたタイミングで、今度は父ちゃんが仕事で茨城県のつくば市というところに転勤になったと言いやがります。
関東地方です。
つくばってナニ…???
僕はまた転校することになりました。
後で聞いた話なのですが、父ちゃんはこの時単身赴任で行くつもりだったらしいのです。
でも僕と妹ふたりは一緒に行きたい!と言って聞かなかったそうで、しぶしぶ一緒に行くことになったんだとか。
…ということは、僕はその選択を自分でしたということになります。
その選択がさらに自分の人生を困難なものにしていくことも知らずに…。
この時僕は4年生になろうとしていましたが、前の転校の時と同じように、また転校生の僕を温かく迎えてくれるものなんだと、信じて疑いませんでした。
ところが。
残念ながらそれは一瞬で崩れました。
茨城県つくば市は関東地方です。
関西と比べると人がちょっと冷たいイメージがありました。#ナゾの関東ディスり
つくば市の小学校では、伊丹市の小学校の時のように盛り上げてくれることもなく、ただただ淡々と紹介されるだけで、すごく入りにくかった。
なんでそんなに冷たいの?と、僕の心の中はザワザワザワザワしていました。
クソ…関東人め…。笑
さらに、ここは関東で標準語を皆さましゃべっておられます。言葉のイントネーションが関西とは全然違うのです。
違うのは仕方ないことなのですが、関西弁でしゃべる僕の言葉をすごくバカにして、変なやつ扱いされていました。
普通にしゃべってるだけなのになぜバカにされないといけないんだ!?と、怒りの矛先をどこに向ければいいのかわかりません。
…と同時に、僕はこの時とても危機感を覚えました。
このままでは僕はひとりになってしまう、と。
ただでさえ今まで住んでたところと比べて人が冷たい、と感じてる中、しかも転校生で言葉も違う。もはや誰も味方がいない状況です。
親や家族に対してもそんなに心を開けていない僕に誰も寄り添ってくれる人がいません。
あふれる孤独感。
すぐに馴染むこともできず、言葉も違う。すごくひとりぼっちな感じがして、すごく寂しくて不安で不安で仕方なかったのを今でもよく覚えています。
つくば市にくるまではなんだかんだ友達もいたし、学校が楽しくて行きたくないなんて思ったことはなかったのですが、寂しすぎてはじめて学校に行きたくない!って思いました。
4年生にもなるといろんなことを考えれるようにもなります。
クラスでしゃべってて僕が来る前の話をされたりすると、完全に部外者で、よそ者感満載で、あぁー…僕は必要ないんだなー…みたいにすごくネガティブ思考に陥ってしまっていました。
僕の両親はすごく厳しかったので、学校に行きたくないなんて口が裂けても言えなくて、弱音を吐くことすら許されない。そんな状況で誰にも本音を言うことができず、この時の孤独感が後々僕の心を歪めていくことになります。
それまで平気で友達の誘いを断ったりしてひとりであそぶことの方が楽しかったのは、「断ってもべつにひとりじゃないから大丈夫」っていう、強力な後ろ盾があったからだったんだ、ということにこの時はじめて気がつきました。
温かい人たちがいてくれたから自由に生きれてたんだと。
この時、宝塚のあの温かい感じが僕にとって宝物みたいに思えました。
温かかったなぁー…と。
宝だけに。
どうしようもないぐらい孤独を感じた僕は、とにかく友達を作ろうと、ひとりあそびをしなくなって、友達とあそぶことを優先しはじめました。2:8ぐらいの割合で。
伊丹にいた時と真逆。笑
ここ茨城県は鹿島アントラーズの本拠地があるところです。
その影響もあってか、子どもたちの8割はサッカーをしていました。
サッカーなんて全然興味がなかったのですが、少しでも共通の話題を作ろうと思って、サッカーのチームに入ることにしました。
親に相談すると、あっさりいいよ、と。
今までだいたい何でも頭ごなしに否定してきたのに。
#親はスポーツに関しては寛容だった
ところが。
運命というのは残酷なもので。
僕がそういうことを優先しようとした途端、プチイジメみたいなものが始まりました。
軽く仲間はずれにされたり、無視されたりちょっと陰湿なことをされ始めたのです。
特に何か悪いことをしたという記憶はないのですが、結局そのイジメみたいなものが何故起こったのかはわかっていません。
まぁイジメなんて特に明確な理由があるわけでもない場合が多いですけど。
そんなに目立ったものでもなく、暴力とかもなく、期間も短かったので、最小限の傷ですみましたが、この頃から確実に僕のメンタルには何かしらの変化が起き始めていました。
4年生になったらおねしょがすっかり治って朝、股間がびちゃびちゃになることはなく、快適な朝を迎えることができるようになっていました。
ようやくそういう苦しみから解放されて、せっかくこれからって時に…。
そのメンタルの変化の正体が何なのかはこの時は全然理解していませんが、後から考えるとこの時を境に心の扉が目にみえて閉じていってたんだろうなーと。
少しずつ人を信じれなくなっていったのです。
その象徴的な出来事がありまして。
小学校5年生の時です。
3つ年上の従兄弟の兄ちゃんがいたのですが、その兄ちゃんは空手をやっていて、ケンカがめっぽー強かったのです。いわゆるヤンキーで暴走族で、髪の毛も金髪でちょっと怖い感じだったのですが、僕にとっては全然そんなことなく、すごく優しい兄ちゃんでした。僕はそんな兄ちゃんが大好きでした。
父ちゃんの実家の鳥取に正月に一緒に帰省してた時、兄ちゃんが「ちょっとついてきて」と言い、人気のない場所に連れていかれました。
何をするのかなーと呑気にワクワクしていたら、兄ちゃんがおもむろにタバコを取り出して吸い始めました。父ちゃんもタバコを吸っていたのでそのこと自体に何の驚きもないのですが、タバコは20歳になってからということぐらいは知っています。
「えっ…!?大丈夫なん!?」と不安になっていたらもう1本取り出して「お前も吸え」と。
ちょっと待ていっ。
小5にタバコをすすめるなっっ。笑
…と、思いつつも、ちょっと興味があった僕は人生初タバコを11歳の時にすませました。最初はゲホゲホゆーて超しんどかったですが、3本目あたりから慣れてきて普通に吸えてました。
3日間ぐらい鳥取に一緒にいたのですが、その間兄ちゃんと一緒になってタバコを吸っていました。でも、さすがに1人で吸う勇気はなく、つくばに帰ってからは吸っておりません。
不良に憧れる=ちょっと心に闇を抱えていたんだろうなーと思える出来事でした。
それでも。
なんとかつくば市の生活にも慣れてきて、友達も少しずつできてきました。
つくばでの生活が1年ぐらい経った頃、僕はバスケットボールを始めました。
器用貧乏な人間なので、最初からある程度何でもできてしまうのですが、バスケだけはすごく面白く感じて、すぐに夢中になりました。#父ちゃんが高校時代県でベスト12に選ばれるほどの選手
学校の休み時間に仲のいい友達数人を引き連れてバスケをしていたところ、他のサッカーとか野球をやってた人たちもバスケに参加するようになりました。
8割サッカーをしていたのが6割ぐらいに減って、その人たちはみんなバスケに夢中になっていました。
そんなふうにまわりのみんなを巻き込めるぐらいに馴染んでいました。
そして「D=バスケの人」っていう印象がまわりの人たちの間で出来上がっていました。
そーなるともっとちゃんとバスケがしたい!と思うようになり、バスケのチームは近くにないものか、と。
小学校にはミニバスのチームがあるにはあったのですが、男子禁制の女子のチームでした。
それ以外の情報網はこの時の僕にはなく、女子だけのチームに入れてもらうしか道はありませんでした。
こうなったらもう無理やりにも入れてもらうしかない!となり、僕ともうひとりの友達とで、「試合に出れなくてもいいから。練習だけでもいいから」と、目論見どおり無理やりチームに入れてもらいました。監督さん、コーチ、選手の皆さん、こんな僕たちを受け入れてくれてありがとう。
バスケは基本的に体育館の中で行うスポーツです。
いつもはグランドの外でバスケをしていたので、体育館でバスケができる喜びを噛みしめながら楽しく過ごせていました。
それほどバスケに夢中になっていて、中学校に入ったらバスケ部に入ることをすごく楽しみにしていました。
相変わらず絵を描くことも大好きで、マンガを描いたりしていましたが、比重が明らかにバスケの方にいっていました。笑
それでもやっぱりマンガを描きたい気持ちも強くあったので、小6の時に30ページぐらいのマンガを描いて憧れの少年ジャンプに投稿してみました。
ところが。
結果は箸にも棒にもかからず、撃沈…。
世の中そんなに甘いもんじゃないというのをまざまざとみせつけられて、僕の心はこの時にポキンと折れてしまいました。#ガラスのハートかよ
この時を最後に、しばらく絵を描くことからは距離を置くようになります。
そうやって3年が過ぎた頃、小学校卒業間近の僕のところにまた赤紙が届きます。