1945年8月15日。
日本はポツダム宣言受諾を決定して
第二次世界大戦に降伏という形で幕を閉じました。
当時のことを知る人はもうあまりこの世には残っていません。
なんせその当時10歳だったとしても、
もうすでに80歳をとっくに超えているのです。
ましてや、日本軍の裏側のことを知る人は
あまりにも少ないのではないでしょうか。
それにくわえて記録など残っていようはずもありません。
当時の軍隊ではそのような記録は残さないのが当たり前だったそう。
だけど、その当時の記録を偶然にも手元に残していた人物がいました。
それが僕のじいちゃんだでした。
じいちゃんは衛生兵として日本軍に従軍していました。
その当時は思っていることを
ありのままに書くことなど到底許されなかった時代です。
あたりさわりのないことしか書けない中で、表面的な事でも
書いておきさえすればいろいろなことを思い出すこともあります。
じいちゃんは軍隊にいたころの「当用日記」と
記憶をたよりに一冊の本を出版しました。
それが『吾が従軍記』という本です
優しさの裏側にあるもの
毎年終戦の時期になると、
必ずこの本を引っ張り出して読むようになりました。
僕はじいちゃん子だったので、年を重ねれば重ねるほど、
子どもが成長すればするほど、後悔の念が大きくなっていきます。
もっといろんな話を、じいちゃんとしておきたかったなぁと。
この本をちゃんと読んだのはじいちゃんが亡くなってからだったので、
それまでは戦争のことを孫の僕の前で語ったことなんか一回もありませんでした。
それどころか、じいちゃんに怒られたことも一度もありません。
いつもあったかい笑顔で僕に優しくしてくれていたのです。
そんなじいちゃんの戦争に対する考え方や、
戦争を通じて「生きる」ということの難しさ、
命の尊さがこの本には詰め込まれていいます。
父が子どものころは厳しい父親だったそうで、
僕はその話を聞いてもイマイチピンときませんでした。
僕の目から見たじいちゃんにはそんな面影はまったく見えなかったので。
それもこれも、本を読んで「ああ、なるほど」と思い知らされましたね。
自分の子どもには厳しくして、子育てが終わればあとは社会人。
そうなれば親としての責任はある程度果たしたことになります。
だから孫には甘々なじいちゃんだったのか、と。
でも、だからこそ戦争の話をするのはまだ早いと思ったのか、
僕がじいちゃんの口から
「戦争」の二文字を口にしたのを聞いたことがありません。
ただ単に覚えてないだけかもしれませんが。笑
でも本の中には、ハッキリと「子や孫に伝えたい」の文字があります。
、ということはやっぱり時期尚早だったということですね。
そんなところにもじいちゃんの優しさを感じます。
目次
・はじめに
・初めて軍服を着て
・杏樹陸軍病院に転属
・日記抄ー昭和16年ー
・日記抄ー昭和17年ー
・日記に記せなかったできごと
・短い帰国
・再び召集される
・父島での戦い
・硫黄島の地獄
・最後の戦い
・日本へ
・あとがき
著者のじいちゃんが大正生まれなのと、
短歌を詠んだりしている人だったので、
少しばかり難しい漢字が出てきたり、
表現がわかりにくいところも多少は否めないですが、
いざ読み始めるとそんなことは気にならないほど
当時の悲惨な軍隊生活がビシビシ伝わってきます。
こんな軍隊に当時の人たちは大日本帝国の誇りとして、
希望を託していたのかと思うとなんとも情けなくなってしまいます。
当事者であるじいちゃんの心情を思うと
胸がはり裂けんばかりに締め付けられます。
なによりもじいちゃんが伝えたいことは
戦争というものの無意味さ、多くの命が
「戦死」という形で自分の目の前で消えていくことの現実、
助かったはずの命がくだらない日本政府のプライドによって
結果、命を落とすハメになってしまったこと、
命の重さ、尊さを戦争を体験することによって学んだ
、ということを伝えたいのだと僕は思っています。
今の日本で戦争を知ってる人のほうがはるかに少ない。
今や戦争が話題になるのは8月の中旬だけです。
戦争が風化されつつある現代で、これだけ生々しい
当時の記録が残っているのは珍しいのではないでしょうか。
なぜ当時、
日記にありのままの事実を書くことが許されなかったのか、
除隊してもその日記を持ち帰ることが許されなかったのか、
この本を読めばそれがよくわかります。
そしてこの本は自費出版なので一般の人には知れ渡ることが少ないんです。
僕はこのブログを通じて1人でも多く、
じいちゃんの想いが届けばいいなと願っています。
コメントを残す