1716年、江戸時代中期。
暴れん坊将軍として有名な八代将軍・徳川吉宗が征夷大将軍に就任したその年に、ひとりの画家がこの世に生を受けました。
その名は「与謝蕪村」。
どっかの村の名前じゃありません。
与謝蕪村は松尾芭蕉、小林一茶などと並ぶ俳句の人として有名ですが、実は実は画家としても優れた才能を持った素晴らしい人です。江戸時代にこんなにも繊細な絵を描く人はなかなかいません。
俳句と絵を融合させた「俳画」という独自の芸術を確立させたことでも知られています。
そんな俳人と画家の二足の草鞋を履く与謝蕪村の波乱に満ちた生涯に迫ります。
生い立ち
与謝蕪村が生まれたのは摂津国東成郡毛馬村というところです。
今の大阪市都島区あたりです。
本名は谷口信章といいます。
蕪村の幼少期は謎に包まれていて、家庭環境とか家族構成もすべて謎です。
ただ、ひとつわかっていることは早くに、10代で両親を亡くしているということです。
蕪村は自らの過去のことは誰にも語らなかったと言われていて、大切な人を亡くした悲しみからあまり人に過去を話したがらなかったのかもしれません。
俳人・与謝蕪村
蕪村は20歳ぐらいのときに故郷を去って江戸に出てきて、早野巴人(はやのはじん。後の夜半亭宋阿)に弟子入りして俳諧を学びます。
※俳諧と俳句は全然違うもので、ザックリいうと俳諧は「詩」みたいなもので、その冒頭の五・七・五が「俳句」になったものです。
早くに両親を亡くした蕪村ですが、27歳のときにも師匠・巴人が亡くなります。
若くして身近な人の死に多く直面してしまいます。
このことがきっかけなのか江戸を出て、兄弟子だった砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って下総国・結城を訪れます。
「人間いつ死ぬか分からない…」なんて思ったのかもしれません。
そこから約10年に渡って、崇拝する松尾芭蕉の行脚生活に憧れて足跡を辿って、僧の格好をして奥羽一円(東北地方)放浪の旅に出ました。芭蕉が約半年ほどで「おくのほそ道」の旅を終えているのでとてつもない時間をかけて行脚したことになります。
この10年の旅の間に俳人、画家としての土台を作っていました。
その最中、1744年に雁宕の娘婿宅に居候していたときに編集した『歳旦帳』で初めて「蕪村」の号を使いました。
与謝を名乗るのはもう少しあとのお話。
42歳のときに京都に定住するようになります。それから「与謝」を名乗るようになるのですが、蕪村のお母さんの故郷である丹後与謝(京都府与謝郡)から取ったものという説があります。
このことから、早くに亡くしてしまったお母さんへの深い愛情が読み取れます。
母の故郷で詠んだとされる「夏河を越すうれしさよ手に草履」という句にもその気持ちが出ています。
45歳のときに結婚してひとり娘の「くの」をもうけます。
この時代にしてはかなりの晩婚だったようです。
55歳のときに師匠の名前の「夜半亭」の二世を受け継ぎました。
その後は京都で生涯を過ごして、68歳で人生の幕を閉じました。
広く知れ渡るようになったのは明治以降
俳人として蕪村が知れ渡るようになったのは意外にも蕪村が亡くなってから100年後、明治の俳人・正岡子規による著書「俳人蕪村」でようやく世間に認知されていきます。
生前は松尾芭蕉の存在があまりにも大きくてそのほかの俳人は影を潜めていました。
画家・与謝蕪村
蕪村は小さいころから絵を描くことが得意だったようで、10年間の放浪の旅で宿代を絵で払うということをしていました。
宿代って現在でいうとだいたい5000円〜10000円ぐらい。
それを絵で払うとか。
すごすぎ蕪村さん。
松尾芭蕉に憧れて俳句を詠んだりしていましたが、画家を本業にして活動していました。
絵を売って家族3人暮らしていたのですが、蕪村が描いていたのは「文人画」というジャンルで中国の山水画を日本風にアレンジしたものです。
池大雅とともにこの時代を代表する文人画家のひとりです。池大雅との競作が重要文化財になったりもしています。
36歳のとき、放浪を終えた蕪村は京都に移住して寺院に保管されている古典絵画に触れて絵の学びを深めていきます。
39歳で母の故郷、丹後与謝に移り、浄土院見性寺に移り住みます。
画家として制作に没頭して「方士球不死薬図屏風(ほうしぐふしやくずびょうぶ)」という作品を描いています。
51歳で単身、四国・讃岐と京都を行き来するようになって、讃岐に「蘇鉄図屏風」などの作品を残します。
この時代の画家といえば狩野派が画壇を席巻していた時代ですが、蕪村はどこの流派に所属することなく、独学で絵を極めました。
俳画
その作品の中には松尾芭蕉への敬愛がわかる作品がいくつかあります。
重要文化財にも指定されている「奥の細道図巻」なんかは『奥の細道』の原文を書き写して絵画を付け加えたもの。
小説を漫画にアレンジしたようなものです。
こうして俳画という新しいジャンルが誕生しました。
蕪村の色恋おもしろエピソード
蕪村は45歳という晩婚でした。
女性に興味がなかったのかというとそんなことはなくて、64歳のときには京都の芸妓に夢中になりました。笑
そして小糸という愛人がおりました。
妻子があるにもかかわらず愛人に夢中になり嵐山で遊んだり芝居見物に出かけたり、色恋を楽しんでいました。
「英雄、色を好む」とはよく言いますが、蕪村も例に漏れずだったようです。笑
蕪村の絵画作品
夜色楼台図
国宝です。
十便十宜図
国宝。
池大雅との競作です。
山水図
重要文化財です。すっごい繊細で心奪われますね。
奥の細道図巻
重要文化財です。
野馬図屏風
まとめ
俳人としても画家としても大成した与謝蕪村。
彼の生き様、信念から学べることは、やっぱり芸術って年を重ねると深みのある作品が生まれやすいんだなということ。
若くして大切な人を亡くした蕪村の人生は波乱に満ちていました。
そんな経験が蕪村の人生を豊かなものにしたのは間違いありません。