1584年。
本能寺の変で織田信長が急死してから2年後。
後の豊臣秀吉、羽柴秀吉が天下を手中に収めようと奮闘していたころ、ひとりの男が生まれました。
その名は「宮本武蔵」。
剣豪としての武蔵が圧倒的に有名すぎてほかの分野での活躍が目立ちませんが、芸術家として水墨画、木刀を残したりもしています。
ここでは武蔵の水墨画作品にスポットを当ててみようと思います。
芸術家としての武蔵
剣豪としての武蔵はいろんな時代でいろんな場所で物語が語られていますが、芸術家としての武蔵はあまり語られていません。
最近では井上雄彦氏の「バガボンド」が大人気です。僕自身もバガボンドをきっかけに宮本武蔵を詳しく知りたいと思うようになりました。
ただ、そのバガボンドの物語も武蔵の剣豪としての半生を描いていて、途中で停滞しています。
それも20代前半の血気盛んなお年ごろのお話で、人を斬りまくっています。笑
そんな剣豪としての武蔵だけをみると芸術なんてしなさそうな感じです。
でも要所要所で墨絵を描いたり、仏像を彫ったり、書を披露してみたりと、芸術家である武蔵を垣間見ることもできます。
史実では武蔵は晩年になって剣を捨てて画業に専念したといわれています。ただそれは現在残っている作品が晩年に描かれたもの、と考えられているからです。
作品は主に水墨画が多くてホントに剣豪なのか?と目を疑ってしまうほどの素晴らしい作品を残しています。
でもあんまり自分を出したがらない"シャイ"な性格だったのか、本人のものと証明できるようなものはあまり見当たりません。
落款や署名がある作品は1点のみで、ほかの作品は武蔵が亡くなったあとで武蔵以外の人が印を押したものだそうです。
■武蔵の作品
国の重要文化財に指定されている4つの水墨画作品を紹介します。
『枯木鳴鵙図』
いかにも倒れそうな枯れた木にモズがとまって鳴いている水墨画です。国の重要文化財に指定されています。
『紙本墨画紅梅鳩図』
梅の木に鳩がとまっている水墨画です。
『紙本墨画芦雁図』
芦は水辺に生えてる草の一種で、そこに雁というカモの一種で、多くの絵師、画人が題材にしてきました。
『紙本墨画鵜図』
鵜という鳥を題材にした水墨画。
こんな感じで武蔵は水墨画家として、素晴らしい作品を数多く残しています。
そんな武蔵がどんな半生を送ったのか??
剣豪・武蔵
剣豪としての武蔵はいろんなところでいろんな人が物語を作ったりしていて、もはやどれが本物の武蔵像なのかもわかりません。
記録には残っていたとしてもそれが本当に起きた出来事なのか、確認する術が僕らにはありません。
タイムマシンでもない限り。
大切なことはそれが真実かどうかよりも、そういう人が歴史上に本当にいて、生き様からいろんなことを学んで、今生きている僕らが前に進むことだと思います。
そういう意味では僕は井上雄彦氏の「バガボンド」での武蔵像がいちばん好きです。
それまでは宮本武蔵に対してそこまで興味はなかったのですが、「バガボンド」を読んだことで「あぁ、宮本武蔵ってこんな人だったんだ」と、めちゃくちゃ好きになりました。
でもあの物語はほとんど吉川英治氏の創作で史実には大きく反しているといいます。
でもそんなのわかんないじゃないですか。
もしかしたらバガボンドの武蔵像が真実なのかもしれない。
そんなロマンを追い続けて生きていきたいと思っています。
生い立ち
というわけで武蔵の生い立ちを超ザックリ解説します。バガボンドの武蔵です。
史実と違ってても僕はあの今風に描かれた武蔵が変にリアルな感じがするので好きです。
武蔵は1584年、美作国・宮本村で生まれました。
おつうと本位田又八と幼なじみでよく3人で一緒にいました。
そのころの武蔵は名前を新免武蔵(しんめんたけぞう)といいました。
腕っぷしが強くて、大人でも余裕で勝てるほどの剣の腕前でした。
13歳のとき、有馬喜兵衛が村に挑戦者を募って現れた際、不意打ちで殺してしまいます。
そのときから「悪鬼」と村の人たちに恐れられるようになり、孤独になっていきました。
そんなときでもそばにいてくれたのは又八とおつうだけでした。
関ヶ原の戦い
17歳のとき、幼なじみの又八に誘われて関ヶ原の戦いに西軍として出陣します。そして見事に敗れます。
合戦場から宮本村に戻るとき、関所を破ったり追っ手を手にかけたり、ボロボロになりながらもやっとの思いで村に帰ると、今度は又八の母・お杉おばばに息子を戦に誘ってそそのかした、と疑いをかけられて追われる身になってしまいました。
お杉おばばを筆頭に村人全員に追われ、ついには沢庵という坊さんに捕まえられます。
幼いころに父に命を狙われるわ、母の愛情も知らんわ、村人には忌み嫌われるわで、生きる意味を見出せずにいた武蔵は沢庵に何度も「殺せ」と言いますが、「たくさんの命を奪っておいて自分だけ死にたいときに死ぬなんてずいぶん自分勝手じゃないか」と諭されます。
そしてその言葉に武蔵はさらに苦悩して自らの命を投げ出そうとします。
そこでようやく沢庵に自らの存在を認めてもらい、剣に生きる道を志します。
このときに「武蔵(たけぞう)」から「武蔵(むさし)」と名前を改めて、宮本村の武蔵ということで苗字も「新免」から「宮本」に改めます。
こうして宮本武蔵(みやもとむさし)が誕生しました。
この「宮本村のたけぞうでむさし」っていうところはホントに鳥肌が立つぐらい感動しました。
そこから武蔵は京都最強の吉岡一門・伝七郎とと戦って敗れて、武者修行の旅に出ます。
奈良の宝蔵院で胤栄と出会い、教えを乞い、胤舜と命のやり取りをすることで剣士として、人間としての成長を遂げます。
その後も柳生石舟斎、宍戸梅軒、吉岡清十郎、弟の伝七郎、吉岡一門総勢70人斬りと、いろんな人と出会い、対峙するたびに成長して、剣豪としての道を極めていきます。
ザックリ説明するとこんな感じです。
まとめ
剣豪としての武蔵はわりと知られていますが、水墨画家としての武蔵はもっと謎が多くて、だからあんまり取り上げられないのかなぁと思ったりします。
ただ、ひとつだけ言えるのは武蔵は自分にかなり厳しい性格だったことがわかります。
常に自分と向き合い、己に打ち勝って剣を極めて数々の敵を打ち破って、60戦無敗という記録を打ち立てています。
もともとの才能があったとしてもなかなかそんなことできるもんじゃありません。
かなりストイックな人だったんだと思います。
ストイックな人というのは基本的に自分しか見ていなくてほかに興味がありません。
なので剣を捨てて画業に専念してからもかなり自分に厳しく向き合っていたのだと容易に想像がつきます。
その証拠に武蔵には未完成で反古にしたたくさんの描き損じた作品が残っているといいます。
武蔵は死の間際、霊厳洞にこもって剣人としての遺書がわりに『五輪書』を書き残し、画人としての遺書がわりに『心魂の画』を描き残しています。
剣人として二刀流だった武蔵は人生でも二刀流でした。