1874年、日本は明治が始まったばかりで混乱の真っ只中にいました。
そんな中、ひとりの水墨画家・菱田春草がこの世に生を受けました。
無二の親友で日本画界の巨匠・横山大観が「あいつこそ天才だ。磨くほど光る金の瓦だった。おれなんかは普通の瓦だよ」と言わしめたほどの才能に満ちあふれていました。
でも彼は、36歳という若さでこの世を去ってしまいます。
美人薄命とはよく言ったものです。
そんな春草の人生を紐解いていきます。
生い立ち
菱田春草は1874年(明治7年)に長野県の南アルプスを望む飯田市で旧飯田藩士・菱田鉛治という人の三男として生まれました。
春草はペンネームで本名は三男治(みおじ)といいます。
幼いころから絵が上手くて優秀な成績で高等科(現在でいう中学校)に入学して洋画家の中村不折(なかむらふせつ)に絵を教わっています。
東京美術学校での出来事
高等科を卒業した次の年に東京美術学校が開校して翌年、つまり17歳になる年に二期生として入学します。
1学年上には横山大観、下村観山がいて、今考えるとなんともまぁ豪華なメンツが揃っていらっしゃること。特に大観とは学校でも1、2を争うほどのライバルで、良き友でもありました。このつきあいは卒業後も長らく続くことになります。
そんな中、春草は岡倉天心、橋本雅邦に師事し、2年生のときに描いた「海老にさざえ」をみるとすでに画力はえげつないものを持っていました。このときから将来を嘱望される画家の一人でした。
卒業制作で描いた作品「寡婦と孤児」は、戦で取り残された女性の悲しみを描いた作品です。西洋の水彩画の技法で陰影を見事に表現した素晴らしい作品ですが、審査では論争が巻き起こりました。橋本雅邦は最優等を主張しましたが、女性の顔があまりにも不気味だったので、一部の教官からは「化け物絵」やら「落第」やら酷評されてしまいます。
最終的に校長の岡倉天心が「優秀一席」の評価をして大絶賛しました。
岡倉天心氏の男前さには歯が立ちません。
日本美術院への参画
東京美術学校卒業後は母校で教員として勤めていました。
24歳のとき、恩師・岡倉天心への排斥運動が起こり、校長職を追い出されます。
横山大観、下村観山も同じく教員として勤めていたのですが、恩師の失脚に失望して春草含め、みんなそろって教職を辞めます。
同じ年に岡倉天心を筆頭に財団法人・日本美術院を創設します。
さらに同じ年に萩藩士族野上宗直の長女・千代と結婚します。#千代さん美人すぎる件について
春草にとってこの1年は、仕事辞めるわ新しいことに挑戦するわ、嫁さんもらうわで、激動の1年だったんですね。そしてこの4年後には長男・春男が誕生します。
朦朧体
日本美術院での活動の中で横山大観とともに西洋画の技法を取り入れた画風を研究していました。
恩師の岡倉天心が「空気を表現する方法はないか」と言葉を投げかけました。これがきっかけで誕生したのが「朦朧体」です。
これは輪郭線を極端に抑えた技法で、薄めた墨を紙の上でさらに刷毛で伸ばすとモヤがかかったような表現になってきれいなグラデーションになって見事に「空気」が表現されています。
それは今までの日本画にはない斬新な描法でした。
ところがこの朦朧体、当時はさんざん批判を浴びました。朦朧という言葉も意識が朦朧とするの朦朧で、描いてるんだか描いてないんだかわからない、勢いがないなど、かなり批判的な言葉でした。
それまでの日本画の伝統をぶち壊すような真逆の画風で、新しいものを脊髄反射的に拒否する保守的風潮の強い日本の批評家から大バッシングを浴びました。
海外での活動
日本で大バッシングを浴びた春草と大観。
でもふたりともこの描法にこそ新たな可能性があると信じて没頭します。いいですね。この関係。。。
その結果ジリ貧の日々を送ることになってしまいます。
31歳のときに海外の技術を学ぶために岡倉天心、横山大観らとともにインド、アメリカを訪問して各地で個展を開催します。
アメリカではこの革新的な画風は「神秘的だ」と大流行。
そのときに滞在費を捻出するために展示即売会を開くと次々と売れていきました。
春草はこれに気を良くして1年半後、想いを新たに帰国しました。
襲いかかる病魔
帰国後、日本美術院は経営破綻し、岡倉天心の別荘がある茨城県五浦に移転します。そこで横山大観、下村観山らと創作活動を行います。
そして34歳の春、思いもよらぬ悲劇が春草を襲います。
眼の病(網膜炎)を患い失明の危機に瀕します。
医者からは一切の創作活動を禁じられてしまいました。
でもその年の秋、一時的に病状は回復します。
春草は6歳の息子・春男を連れて代々木の雑木林を散策します。そして枯れかけのまだら模様の葉っぱを見つけると、己と重ね合わせたのか一心不乱にスケッチをし続けました…。
この1年後、重要文化財に指定される春草の代表作「落ち葉」を描き上げます。
これを機に春草はとんでもなく卓越した描写力と、琳派の装飾性を融合した独自の画風を確立して、以降の日本画の革新に大きく貢献しました。
その間に病はどんどん進行してしまい、36歳の夏、ついに失明してしまいます。
そしてそのわずか1ヶ月後、腎臓病でこの世を去りました。
無二の親友だった横山大観は「あいつ(春草)が生きていたらおれなんかよりもずっと上手い」と、自らが日本画の巨匠と褒められるたびに口にしていたといいます。
菱田春草の代表的な作品
『海老にサザエ』(写生)
『寡婦と孤児』
東京美術学校の卒業制作。
傷んだ鎧の前に赤子を抱いた女性と、背景にはボロボロに荒んだ室内。この絵の元となった物語は後醍醐天皇を暗殺しようと企んだ西園寺公宗の妻・日野名子があばら家で男児を産み落とし泣き暮らすというものです。
『武蔵野』
横山大観と2人で実験的に始めた「朦朧体」を盛り込んだ作品です。
『寒林』
『菊慈童』
『紫陽花』
『王昭君』
重要文化財
『夕の森』
『春色』
『落葉』
重要文化財
足元を眺めつつ林を歩くかのような構図でそこには無限の静寂が広がっています。
この作品が第3回「文展」に出品されると、審査員たちは「西洋かぶれ」と批判しましたが、会場では何度となく観客が足を止めてじーっと見入っていたといいます。
『黒き猫』
重要文化財
『早春』(絶筆)
まとめ
36歳というあまりにも早すぎる死を迎えた春草。
もっと彼が長く生きていたら、と思うと胸が締めつけられます。
あまりにも惜しい人をなくしてしまいました。
息子の春男は大観に師事して日本美術院の研究会員になっています。その後大正14年日本美術院の事務を任されました。そして昭和54年には理事まで務めています。美術鑑定家といて知られています。
情に厚い大観が親友の息子を放っておけなかったのかもしれませんね…。