1863年。
ときは幕末の動乱。日本は長い江戸幕府が終わりを迎え、時代が大きく動こうとしていました。
そんな中、日本の美術界の歴史を大きく変えたひとりの男が産声を上げました。
その名は「岡倉天心」。
「天心」という名前は詩を作るときに使っていたペンネームみたいなもので、生前は「岡倉天心」と呼ばれることはなく、本名の岡倉覚三で活動していました。
岡倉天心は日本美術の思想や価値観を海外に積極的に伝えていました。彼がいなければ今の日本の美術界がどうなっていたことかわかりません。
横山大観、菱田春草、下村観山など名だたる美術家が天心を崇拝しています。皆さんそろって作品が国宝とか重要文化財になるような才能の持ち主です。
そんな人たちが崇拝した人物・岡倉天心。
どんな人物なのか??
そんな岡倉天心の生涯に迫ります。
岡倉天心の生い立ち
岡倉天心は1863年(文久3年)、福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として横浜で生まれました。
父が横浜で生糸を扱う貿易商店「石川屋」をやっていたので外国人との交流があったことや、英語塾に入っていたことから、幼いころから英語とか西洋文化に触れる機会がありました。
天心が後に海外で活動するきっかけはこんなところにあったのかもしれません。
天心が7歳のときアメリカの宣教師・ジェームス・ハミルトン・バラの英語塾に入ります。この年に母親を亡くしています。
その翌年、父親が再婚します。若干早すぎの感もなくもないですが、人の事情に口を挟むのはよろしくないのでやめておきます。
父の再婚をきっかけに大谷家に養子に出されますが里親とそりが合わず神奈川の長延寺に預けられます。
寺の住職から中国のことを学ぶ一方で高島学校という洋学校に入学します。
10歳のとき、廃藩置県で石川屋が廃業し、父が蛎殻町で旅館を始めたので一家で東京に移転しました。ときを同じくして東京外国語学校に入学します。
なにやらたくさん学校とか塾とかで勉強していた天心ですが、幼いころから知識を詰め込んで、その基盤を整えていたんですね。
東京開成学校〜文部省勤務
天心12歳のとき、東京開成学校に入学します。2年後に開成学校は東京大学に改められました。#すっげえ
12歳で大学とか早すぎですが、当時はそういうのが当たり前でした。
このときに後に長いつきあいになっていろんな活動を共にすることになる、アーネスト・フェロノサに政治学、経済学を学びます。
16歳で大岡基子と結婚します。
当時は15歳で元服と言われていたので、16歳で結婚なんてのは当たり前でした。
17歳で東大を卒業して文部省に就職して美術行政の仕事に関わるようになります。
明治を代表する文部官僚、九鬼隆一と全国の子社寺を調査したり、フェロノサとともに日本美術の調査をします。
明治政府の廃仏棄釈で仏像やらいろんな美術品が破壊されて海外に流出されていきました。いろんな調査していく中でその実態を知り、「これはアカン」と思った天心は古美術を保護していくことを決めます。いろんな活動をしていく中で天心の活動が基になって「国宝保存法」「文化財保護法」っていう法律の礎にもなりました。
余談ですが、九鬼隆一は天心のパトロンでした。あろうことか天心は妊娠中の九鬼隆一の妻・波津子と恋に落ちます。#何しとんねん笑
そして九鬼隆一はのちに波津子と離婚して、生まれた子が哲学者の九鬼周造です。周造は幼いころ、家に訪ねてくる天心を父親と思っていたようです。笑
このときから天心の行動力のすごさが垣間見えます。いろんな意味で。
東京美術学校設立のためにフェロノサと欧米へと視察に旅立ちます。現地でアールヌーヴォー運動の高まりを見て、美術への関心、日本画推進の想いをさらに強くします。
東京美術学校
1889年(明治22年)東京美術学校が開校すると初代校長に就任します。
教え子には横山大観、下村観山、菱田春草、福田眉仙、西郷孤月らがいて、そうそうたるメンツが揃っております。
しかもみんな天心のことを「恩師」と呼んでいて、その影響力は計り知れません。
天心はそれまでの狩野派などの画家集団による粉本(お手本となる絵のこと)を模写する修行法はダメだとして、写生、臨画(線描と濃淡の習得を目指した古い絵の模写)、そんでもって何よりも新しい形の美術の創造を目指しました。
特に西洋画に深い造詣があって、「西洋画に負けないように、でも日本画のいいところは失わないように」と美術学校の生徒たちに説きました。
そういった新しいことに挑戦する姿勢が生徒たちの胸に刺さったのだと思います。
日本美術院
ここまで一気に駆け抜けてきて、順調に思えた天心でしたが、35歳のとき、排斥運動が起こり、東京美術学校を追い出されてしまいます。
このとき、大観、春草、観山らも母校で教員として働いていましたが、天心が辞めると知るやいなや、同じように辞職してしまいます。
そして辞めた人間を集めて、美術家団体「日本美術院」を設立しました。
美術院の活動の中で大観、春草に「空気を表現する方法はないものか」と提案します。
この言葉がきっかけで大観の代名詞である「朦朧体」が生まれることになります。
東洋の美と心を海外に
朦朧体は大バッシングを浴びて、世間に受け入れられなくなり、活動は行き詰まりを見せはじめて、天心の目は国内ではなく、海外に向かいます。
1901年に天心はインドに渡りました。ヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダと東洋宗教会議について話し合ったり彼の紹介で詩人のラビンドラナート・タゴールやその一族と親交を深めました。タゴールはアジア人で初めてノーベル文学賞を受賞した人物です。
インドで各地を巡って東洋文化の源流を自ら確かめた天心は滞在中に著書『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
1904年、アメリカに渡った天心はアーネスト・フェロノサが勤めるボストン美術館中国・日本美術部に迎えられて、東洋美術版の整理をしたり、目録を作ったりしていました。
同時期に大観、春草は天心に従ってアメリカに渡って展覧会を開いて大成功を収めました。
あれだけ大バッシングを浴びた「朦朧体」が日の目を見た瞬間です。
新天地・五浦
天心は茨城県の五浦を訪れて太平洋を望む五浦海岸の断崖絶壁、人里離れた穏やかな景色を気に入ってそこに新築と六角堂を建てました。
ボストン美術館に迎えられると館の美術品を集めるために五浦とボストンを往復することが多くなって表立った活動は少なくなっていきます。
そうなると日本美術院の活動が衰退していきます。
天心は美術院の再建を図るために五浦に移転させることを決めました。
そこには横山大観、菱田春草、下村観山、木村武も呼び寄せます。当時の新聞やら雑誌ではこの移転を「日本美術院の都落ち」「没落」と揶揄されました。
彼らは生活上の苦境に耐えながらも1907年に発足した文部省美術展覧会に近代日本画史に残る名作を発表しました。
晩年
その後も天心は精力的に活動を行っていました。ボストン美術館で中国、インド、日本の美術品収集、東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなしていました。
1910年にはボストン美術館の中国・日本部長に就任しています。
1912年、ボストンに向かった天心は途中インドで詩人・タゴールの親戚にあたる、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会い、ラブレターとも言える文通のやりとりを天心が亡くなるまでずーっとやっており、
こちらの活動も精力的に行っていたようです。
1913年に体調を崩してアメリカから帰国した天心は静養のために新潟県の赤倉温泉を訪れましたが、病状が悪化して9月2日、帰らぬ人となりました。