世の中不平等だけど「平等」が生んだ弊害もたくさんあるよ

いろんな国の人たちがごちゃ混ぜになって国際的な交流が当たり前になった世の中。僕を含めた多くの日本で生活している人は日本という名前がついた島で生まれて育ってきました。

日本ではみんな肌の色や目の色はだいたい同じなので人種差別こそないものの、身分差別というものが昔からありました。

その身分差別が形式上なくなったのはおよそ100年ちょっと前の話。

「四民平等」というスローガンとともに身分関係なく結婚、職業、住居の自由が認められたのが明治時代初期のころ。でも現実は維新政府が天皇を頂点とした新しい国家権力を作ろうとしただけ。そのために国民を支配することが必要と考えた政府はこれまでの「士農工商」のような身分差別があっては国民には不満しか残らないと考え、「四民平等」を謳うことで国民の信頼を得ようとした。なので「士農工商」はなくなったものの、華族(藩主)、士族(武士)、平民(農工商)という形で差別はその後もしばらく色濃く残ることとなりました。

武士や大名が農民や商人をいじめ倒していた「士農工商」が当たり前だった江戸時代とかと比べると、今の時代っていうのはなんでもできて住む場所も自由だし、特に不自由を感じるということはありません。ステキな世の中になったなぁと思います。

ただ、逆に今度は平等意識が強すぎて制服を着ることを強制したりみんな同じようなランドセルを背負ったり、風紀が乱れるだのの理由で髪の毛をむりやり黒髪にしたりという文化が生まれました。これは数でいえば大名や武士たちのほうが少なくて、虐げられてきた一般庶民のほうが圧倒的に多かったのが原因です。その人たちが一致団結して生まれたのが「みんな同じじゃないと」という文化です。今でもそれがいろんなところで色濃く残ってしまっているのが現状。だからちょっと人と違うことをすれば変人扱いされて叩かれたり、ときには大炎上したりしています。

この時点ですでに平等ってなんだっけ?って疑問を抱かざるを得ないですね。平等って「みんな同じ」ではなくてそこには何も優劣はなくて「みんながやりたいことを自由にできる権利を持っているんだよ」というのが平等の本来の理(ことわり)のはずです。

それがすごく疑問だった学生時代です。風紀が乱れるから髪の毛は茶色にしてはいけません。と髪の毛を黒染めスプレーで無理やり黒くさせられたのは僕です。風紀が乱れるんだって。カッコイイなと思って茶色にしたのに。「風紀」ってどっちかっていうと男女間のことなのに。#髪の毛一切カンケーねーじゃん

中学生とか高校生とかって大人の階段をすごい勢いで上ってる最中で、いわば自分という「個」を必死こいて磨いてる状態。そんな大切な時期にはもっと自由にさせてあげたほうがいいんじゃないかなと思います。どのみち社会に出ればそんな甘いことも言ってられなくなるし。社会に出るまではどんな形でも、個を磨くことに意識をもっていってあげたほうがいいと思います。たとえ非行に走ったとしてもね…。見捨てさえしなければ後からいくらでも修正はできる。僕は幸運にも親に見捨てられることはなかったのでちゃんと軌道修正できました。

もがいてる最中はあくまでも生あたたかい目で見守ってあげるのが人生の先輩としての役目だ、と僕は思います。

「みんな同じ」を強要すると個性というものがどんどん失われてしまいます。失わないにしても間違いなく育つのが停滞する。

学校とか幼稚園とかっていう組織の中ではホントにいろんな子どもがいて、みんなそれぞれ生まれた場所も違えば育った環境も違います。4月に生まれた人もいれば3月に生まれた人もいる。ここにはおよそ1年もの差があります。この時点ですでに平等もクソもないですよね。

子どもの、特に10歳ぐらいまでの「時間の感じかた」っていうのは大人の100倍ぐらい価値があります。それだけ感受性が豊かだし、いろんなものを吸収する時期です。そんなふたりが同じクラスで同じ授業を受ける。

それでも時間が経てばたつほどそんな差ってなくなっていくから子どもの成長力、対応力ってすごいなぁと思います。

逆に言うとそれだけ成長できる力があるのに「平等」の名のもとにみんなが同じことをするっていうのは、だいぶもったいないことをしてるんだろうなと思います。中には算数が大好きで算数のテストではいつも100点とってる子がいたとします。その子は社会が超絶ニガテです。だから社会の授業は退屈でしかたありません。そんな子はもう、その時点で将来のことを考えてあげて算数だけをやらしたほうがいいんじゃないかなと。

そんでもって数学者とかになって面白いこと考えて人々を幸せにできる何かを生み出す、っていう方向に導いてあげたほうがいい。あえてニガテな社会を無理にやらせても何も身に付きません。実際に僕自身も興味があったことはいまだにすごく覚えてるけど、数学の因数分解とかもうほぼほぼ忘れてしまっています。生活の中で使うことがないので困ることもまったくないんです。

それを強制的にやらすことの意味って何なんだ?と。

ムダなことが圧倒的に多すぎるのでもっと効率的にできないものかなぁ?

「平等」が生んだ弊害の一部がこんな感じです。考えればもっともっと出てくるでしょう。全部が全部悪いとは思いません。「平等」によって良くなったことも山ほどあると思うので。ただ、世の中がすごいスピードで変わっていってる中でそんなことも含めていろいろ見直したらもっと世の中が面白くなって将来生まれてくる僕らの子ども、孫、ひ孫が楽しく生きることができたらいいなぁと思っているだけです。

平等という弊害で成長が遅れる

 

人によって成長の度合いなんてのはさまざまで、20代半ばから急速に成長する人もいます。30代になってやっとこさ伸びてくる人もいます。

僕はまさにそんなひとりで、10代から20代の半ばまでは「みんな同じ」に苦しめられていました。だから荒れたりもしました。精神的に弱かっただけといえばもちろんその通りです。それを言っちゃうとそれまでなのですが、人って群れたらなかなかこわいっすよ。

僕と同じように苦しんだ過去を持っていたり、今なお苦しんでいる人は少なからずいると思います。

僕はなんとかその螺旋から降りることはできましたが、その螺旋は一回入ってしまうとなかなか抜け出すのが難しくて、けっこうな時間がかかってしまいました。それができたのは自分のことを認めてくれる人たちがいたからなんですね。何をしてても応援してくれる人。そんな人たちのおかげで今日も僕は生きています。

ありがとう。

 

成長が遅れてしまってとんでもないことをやらかしてしまうこともあります。

たとえば世間で"一流といわれる大学"を出たやつがアホなことをしてテレビで取り上げられているのを見ると余計にそう思うんですが、これも平等が生んだ弊害ですよね。学歴社会なんてみんなが同じ方向を向いてるっていうのが大前提にあります。その心は、どんなやつでも小学校、中学校には入学するからです。小中の9年間は義務教育で「親が子どもに教育を受けさせる義務がある」っていう法律で定められています。「平等に教育を受ける権利を有する」ですね。だからみんなこぞってランドセルを買ったり制服を買ったりするわけですね。そこでみんなが同じ授業を受けてノート書いて宿題やって当たり前のように学校生活を送る。それ自体はまだそこまで問題がないかもしれません。

でも中には、意味のない勉強をさも意味があるかのようにみせて「勉強がすべて」っていう価値観をそこで植え付けてしまう輩もいます。だからほかの生きていくために必要なもっともっと大切なことを知らないやつが現れてしまう。そういうやつが精神的な成長が遅れて何がいいのか悪いのかの分別もできなくなってしまって、平気で人殺したりしてしまうんですね。

これだったら学歴的には評価が低いけど、中卒で働いて社会にもまれてきたやつのほうがよっぽど人間くさいし、思いやりも情も深いっていうことがいたるところで起きております。

学校という場所がなくなればいいのに、とは思いません。学校で楽しかったこともたくさんあるので。でも当時はそれしか選択肢がなかったからそうせざるを得なかっただけで、いろんな生きかたがある今の世の中で学校に行く以外の選択肢も増えたらもっと世の中が面白くなるなじゃないかなぁと思っております。それこそ「平等」にやりたいことを自由にできたらいいのになぁと考えております。

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