芸術センスは努力で磨くことができます。
生まれ持った才能とかではありません。
才能なんてのは、何の努力もせずあきらめた人たちの言い訳です。
実際僕も「センスゼロやな」とか言われてたこともありましたが、努力してそんなことは言われなくなりました。
やろうと思えばできるものなのです。
センスは環境によって変化する
センスという言葉の意味は
「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。またそれが具体的に表現されたもの」
と国語辞典に書いてあります。芸術センスというと、「この絵はすごく良い絵よね〜」っていうのを感じる能力のことです。
ただ、この感覚って人それぞれ「良い」と感じるポイントが違っておりまして。
同じ絵を「良いよね〜」って言ってる人同士でも、どこが良いのかの議論が白熱する、なんてのはよくある話です。
なので、100人いれば100通りの、1000人いれば1000通りの「良いと感じるポイント」が存在していて、それが一致することもあれば微妙にズレたり大幅にズレたりすることもあるわけです。
なので1000人全員が「この絵すごく良い絵だね〜」っていうことはほぼほぼありえないのです。
でもしょせん(…なんていうと語弊がありますが)同じ人間なので、同じ環境で過ごしていれば感覚は似てくるもので、多くの人が「良い」と感じるものは確実に存在しています。
そこに刺さる絵を描ける人が「芸術センスがある」と言われる人になるわけですな。
ただ、この「芸術センス」は環境によって大きく変わります。
時代とか国とか文化とか。
たとえ話をします。
Dさんという人が1枚の絵を描いて、1000人の人が住んでる「ゴア」という街に行って全員にその絵をみてもらいました。
その街では900人の人が「この絵すごく良い絵だね〜」って言ってくれました。
残りの100人の人たちは「いやー別に…」とのこと。
その街ではDさんは「芸術センスがある」という認識をしてもらったので、多くの人から絵を描いて欲しい、と依頼を受けることになりました。
そして今度は少し離れた場所にある「フーシャ」という街に行きました。そこでも同じく1000人の人が住んでいて、全員に絵をみてもらったところ、今度は50人の人にしか「この絵すごく良い絵だね〜」と言ってもらえませんでした。
残りの950人の人たちは「いやー微妙…」とのこと。
とゆーわけで、この街ではDさんは「芸術センスのない人」認定されてしまって、絵の依頼は全然きませんでした。
これが「センス」の正体です。
Dさんの美的感覚はたまたま「ゴア」という街の人たちと似通っていて、「フーシャ」という街ではそれが大幅にズレてた、っていうだけの話です。
センスがあるとかないとかっていうのは、Dさんひとりだけで成立するものではなく、たくさんの人がいて、初めて成立するものです。
なので、仮にDさんがひとりしかこの世に存在していなかったとしたら、「芸術センス」なんて何の意味もなくなってしまうわけですね。
そして「センス」はこんなふうに環境によってずいぶん変わってきます。
江戸時代に大流行してた水墨画が今ではマイナーなものになってるように。泣
日本ではマイナーな水墨画がどこかの国では大流行してるように。泣
時代とか国とか文化によって人々の感じ方はまったく異なるものなのです。
それでいうとファッションセンスなんかはもろに。
去年流行ってたものが今年はもう古いなんてことが当たり前に起こる世界です。
おそろしやー。
芸術は時代に左右されにくい?
環境によって変わるとは言いましたが、芸術ってわりと普遍的なものが多いなーっていう印象です。
絵も音楽も建築も、人々の「良い」ポイントはあんまりズレてないというか、いつの時代もどこの国でも愛されてるものが多い印象。
わかりやすいところでいうと「モナ・リザ」なんかは500年も前に描かれた絵なのにいまだにほとんどの人類から愛されてるし。
江戸時代に描かれた「浮世絵」とかゴッホが影響受けて世界的に認知されてたりするし。
音楽なんかもわかりやすくて、「クラシック音楽」は100年以上前に作曲された曲がいまだによく耳にしたりします。
100年以上経ってるのにいまだに完成してない建築物「サグラダファミリア」なんかは世界遺産になってるし。
他にも挙げればキリがないほどにいろんな芸術が時代、国、文化問わず愛されてるので、絵を描く人にとって「芸術センス」はそんなに大して意味のないものなのかもしれません。#こんだけ説明しといて
センスの磨きかた
とはいえっ。
絵を描く人間は自分が描きたいものを気ままに描く超絶ワガママな生き物ですが、一方ではその描いた喜びをいろんな人と共有したいっていう想いもあるので、誰にも見向きもされなかったらそれはそれでものすごくヘコむ、タチの悪い生き物でもあります。
できれば多くの人に「すげぇーーー!」って言ってもらいたい。
そんな欲望が心のどこかにはあるのです。
なので、人々がどんなものが刺さるのか、っていうのは知っておいて損はありません。
センスを磨くっていうのは、いろんな人の「良い」ってなるポイントを知るってことです。
たとえばここにAさん、Bさん、Cさんの3人の人がいます。
それぞれの感覚を丸で表したとき、丸の位置が微妙にズレますが、似通ってるところがあるので重なる部分が出てきます。
重なってる部分をXと仮定して、ここに刺さるものを描けばもれなく「芸術センスある人」認定がもらえます。
ただ、これは3人だからわかりやすいですが、実際はもっとたくさんの人がいて、Xの割合はそんなに大きくありません。
そして図で表してるからわかりやすいですが、実際は人それぞれの感覚なんて目に見えるものじゃないので、わかりにくいものです。
なので、ひとりひとり確認するしかなくて、とりあえず近しい人何人かに絵をみてもらって、ひとりずつ良いか悪いかの感想をもらいます。
それを繰り返していくうちに、「センス」の世間相場みたいなものが少しずつわかるようになっていきます。
この時に気をつけないといけない&サッサと成長できるのは、決めつけないことです。
どっかの巨匠みたいに「なんでこれの良さがわからないんだ!」的なことを考えて突っぱねてしまうと、そこから何も前に進みません。
特に絵の好みなんて人それぞれ感覚が全然違うので、「人は見た目によらない」がしょっちゅう起こります。
なので、頭を柔らかくして、どんな感想がきても大丈夫なように心構えをしておくことが大切です。
むしろそうじゃないとめちゃくちゃヘコむことになってしまいます。
そりゃーいい気分じゃないっすよ?
「いやー…微妙…」って言われた時のメンタルのえぐられようはハンパないっす。
世間の皆さまとあまりにもズレているとなかなかしんどい思いをすることになりますが、それはそれで世間相場がわかってきた時は、かなり人間的に成長できている時です。
と、同時にセンスも磨かれているので、また新たな境地が見えてきて、素晴らしい絵が描けるようになります。
まとめ
以上、「芸術センスの磨き方」をお送りしてまいりました。
芸術センスを磨くっていうのは、世間の皆さまの美的感覚を知るっていうことです。
それは時代とか国とか文化によって違いはあるものの、ホンモノの魂がこもった芸術作品はそんなこと関係なく皆さまの胸に突き刺さります。
当然目指すべきはそこなのですが、自分だけの感覚で突き進んでしまうと誰にも見向きもされない、なんてこともじゅうぶんありうるわけで。
そうなった時に「それでもかまわん!」ってフル無視できるメンタルを持ち合わせていれば全然問題ナッスィングですが、そうじゃない場合はメンタルやられてしまって絵を描くどころじゃなくなってしまうので、多少は皆さまの美的感覚を知って、そこに刺さるものを描くのもじゅうぶんありだと思います。
むしろそうすることでさらに自分の感覚が鋭くなって、より素晴らしい作品を生み出すことだって大いにありうるわけです。
どっちをとるかは自分次第だし、そこも人それぞれ考え方があるので、好きにしちゃってください。
経験上、まわりの人たちとの感覚がズレていると、「変なやつ」扱いされてしまったりして、かなりメンタルやられたので(笑)、僕は皆さまの美的感覚を知ることを選択しました。
その結果、視野が広がって自分の作品にもいい影響が出たので、ご報告いたします。
とはいえ。
あんまり皆さまの美的感覚を追いかけすぎると、自分の本当の感覚がわからなくなってしまって迷子になってしまうこともあるので、ほどほどに。
それではまた〜。
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