【水墨画家、日本画家・狩野永徳の生涯】狩野一族の英雄

1543年。

ときは室町時代、後に戦の勝敗を左右する「鉄砲」が種子島に伝来した年、ひとりの天才画家がこの世に生を受けました。

 

その名は「狩野永徳」

 

足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、名だたる天下人と対面し、有名な「唐獅子図屏風」は国宝になり、400年もの間日本の画壇のトップに君臨した狩野派のホープと言われた、日本の美術史、いや、歴史に大きく名を残した画家です。

狩野派といえば、多くの人が名前を思い浮かべる「狩野永徳」。

そんな彼の生涯に迫ります。

 

生い立ち

 

永徳は1543年、京都で生まれました。

狩野派一族の直系の子孫で、ひいおじいちゃんは狩野派の始祖・狩野正信です。

 

永徳の名前が大きすぎて狩野派といえば永徳、みたいなイメージがあるかもしれませんが、永徳は四代目にあたります。

永徳は血筋にも環境にも恵まれた、いわば絵師のサラブレッドです。

なので永徳の父・松栄も狩野家の絵師として活動していましたが、息子の才能を見るやいなや、「おれよりも息子のほうがすげえ」と、我が息子のサポートに徹する決断をします。

永徳は幼少のころから画家としての才能を発揮していて、9歳のとき、祖父・元信に連れられて足利義輝と対面します。

おじいちゃんからすると孫がそれだけの才能を持ち合わせている、となると嬉しくてたまらなかったんでしょう。狩野家のホープとしてたいそう可愛がられていたそうな。

永徳自身もこのときすでに祖父、父から将軍の御用絵師としての話を聞かされていたでしょうから「自分も御用絵師になる!」と決めていたのかもしれません。

 

永徳、御用絵師になる

 

そこから絵師としての修行に励み、23歳のとき、将軍・足利義輝から絵の注文を受けます。

それが「洛中洛外図屏風」です。義輝はこの絵を上杉謙信に贈るつもりでした。

でも運命のいたずらか、義輝はこの絵の完成の3ヶ月前、1565年に松永久通に襲われ、この世を去ります。

その9年後、室町幕府が織田信長によって滅ぼされると、今度はその信長が狩野家のパトロンになります。

そして先ほどの「洛中洛外図屏風」は改めて謙信に贈られましたとさ。

 

◾️信長に仕える

 

このころから信長は勢力をどんどん拡大していき、あと少しで天下を手中に収めるところまでやってきていました。

そんな中、1576年に安土城の建設が始まると永徳も御用絵師として安土に移住します。

そこで100枚にもおよぶ障壁画の依頼を受けました。

ここから永徳の地獄(?)の日々が始まります。

安土城の障壁画の制作は間違いなく彼の命を削っていました。

もしかしたら死ぬかもしれない。

そんなことが頭をよぎったのでしょう。

永徳は安土移住前に弟の宗秀に家督を譲っていました。

そして3年の月日を経て、見事に100枚の障壁画を完成させました。

その題材は宗教、大樹、龍、虎、鳳凰、あらゆるモチーフが金地の上に濃厚な色彩で描かれていて、信長も大層気に入っていたようです。

 

でも、ここでまたしても運命のいたずらが彼を襲います。障壁画完成からわずか3年後、信長は本能寺の変で明智光秀に襲撃され、自害します。

ほどなくして安土城も焼かれ、永徳が心血を注いで完成させた100枚の障壁画も跡形もなく焼け落ちてしまいました。

もし、残っていたら、日本の美術史は変わっていたのかもしれません。

こうして永徳はパトロンを失い、自身が心血を注いだ作品も失いました。

 

◾️秀吉のもとで再出発

 

何もかもを失った永徳でしたが、幸いなことに信長の跡目を継いだ秀吉にも目をかけてもらい、御用絵師として仕えることになりました。

派手好きの秀吉のもと、大坂城、聚楽第などの豪華な建造物の障壁画を制作していきます。

そんな中、秀吉の取り巻くほかの大名たちも秀吉に倣ってこぞって永徳に絵の依頼をするようになりました。

こうして永徳は「天下一の御用絵師」としての名声を欲しいままにしました。

大量の絵の注文をたくさんの弟子たちとともにこなしていましたが、それでも追いつかず、文字どおり彼は命を削って昼夜を問わず、寝る間も惜しんで制作に取り組んでいました。

 

最後の灯火

 

ところが、そんな超売れっ子の画家になった永徳の存在を脅かす画家が現れます。

その名は「長谷川等伯」

 

彼は北陸出身の画家で、千利休のバックアップのもと、このころからメキメキ名を上げてきていました。

永徳にとって等伯の存在は脅威でした。

それを象徴するできごとがあります。

1590年、等伯は秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を得ようとしていました。

狩野派の誇りともいえる宮中の仕事を一介の地方出身の画家に奪われてしまう、と思った永徳は、あの手この手を使い、有力公家に「長谷川等伯をこの仕事から外してくれ」と訴えかけます。

なんと大人気ないことでしょう。

そして見事狙いどおりに等伯はこの仕事を外されて、狩野派一門が仙洞御所対屋障壁画の仕事を任されることになりました。

すべては長として狩野派一門を守るためでした。

永徳はそれほどに汚いことをしてしまうほどに等伯の画家としての力を恐れていました。

…と同時に永徳と等伯は歳も近かったので、お互いにライバルのような存在だったのではないでしょうか。

 

なんとかかんとか等伯の仕事を割り込んで阻止した永徳でしたが、その1ヶ月後、日々の過労がたたり、東福寺の天井画の龍図を制作中に倒れてしまいました。

そしてあっという間に永い眠りにつきました。

原因は過労死と言われています。

天下の狩野家に生まれ、天下人のもとで画家としてひたすら突っ走ってきた永徳。

残念ながらその生きた証はほとんど残されていませんが、筆1本で乱世を生き抜いた彼は間違いなく狩野一族の英雄でした。

 

 

代表作

 

◾️聚光院障壁画『花鳥図』(国宝)

◾️『唐獅子図屏風』

秀吉が毛利輝元に和睦の証として贈った作品です。その後、明治21年に皇室に献上されて以来、皇室に保管されています。

◾️『洛中洛外図』(国宝)

京都の町の景観を見下ろすように描いた屏風です。細かいところまで丁寧に描き込まれていて登場人物の数およそ2500人。Σ(・□・;)