水墨画の歴史はとても古くて、始まりは3000年前までさかのぼります。
3000年です。
3000年前の中国で水墨画の元祖が誕生しました。
西暦が始まったのがおよそ2000年前で、それが人類の歴史と言ってもいいぐらいです。それでも遥か大昔のことのように感じるのに、そのさらに1000年も前から水墨画はあったのです。
3000年の間にいろんな文明が栄えては滅び、栄えては滅んでいき、イエス・キリストが生まれて西暦が始まったりと、人類の歴史においていろんな出来事が起こっています。
そんな中、水墨画は滅びることなく、ひとつの芸術として現代まで脈々と受け継がれております。
【水墨画の歴史】墨絵の誕生
殷時代(紀元前1600年〜256年)
中国の歴史上、実在が確認されている最古の王朝が「殷(いん)」です。「商(しょう)」とも呼びます。
水墨画の元祖・墨絵の歴史はすごく古くて、西暦が始まる1000年以上も前、今から3000年前のこの「殷」で、墨を使った「甲骨文字」という古代文字があったという記録が残っています。
他にも刑罰として人の体に墨で文字を入れる「入れ墨」が行われていました。今現在、オシャレとして発展している「タトゥー」は元々刑罰だったのです。
この頃の記録はあくまでも文字のみで、残念ながら絵の記録は残っていません。でも墨を使って文字を書いてたんだから、当然墨を使って絵を描いていたに違いないっていうのが勝手な憶測です。
そういうことってたぶん大いにありうると思うのです。なんせ人間のやること、しかも当時は今ほど保管する技術とかもないわけだし、、、。
【水墨画の歴史】漢時代(紀元前206年〜220年)
いちばん古い「墨で描いた絵の記録」として残っているのは、漢の時代のことです。
今から2200年も前の話です。まだキリストが生まれていません。
800年もの間、人々は何をしていたのでしょう。
「漢」のひとつ前の王朝「秦」の時代の皇帝、秦の始皇帝のお墓から筆、墨、硯が発見されたそうな。有名な秦の始皇帝ももしかしたら墨で絵を描いてたかもしれません。
でもこの頃はまだ水を使った水墨画ではなく、黒一色だけで表現する「墨絵」でした。
水墨画は墨絵から派生したもので、誕生はもう少し後のお話です。
なので、厳密には「水墨画」としての歴史は3000年ではなく、まだ1000年ちょっとなのですが、それはあくまで公式の記録でのお話なのです。
でもね。
「もしかしたら3000年前にも誰かが墨を水で薄めて絵を描いていたかもしれない」とか、そんな想像を膨らますとなんか謎めいてて、ロマンを感じるじゃないですか。
関連記事⇒水墨画と墨絵の違いとは?画像付きで解説
【水墨画の歴史】南北朝時代(西暦439年〜589年)
中国にふたつの王朝が並立していた南北朝時代。うっすら社会の授業で聞いたことある気がしますね。
#バカがバレる
この頃には山水画らしきものが描かれるようになりますが、それはそれは稚拙なものだったそうな。
時を同じくして西の方(欧州)から影響を受けて華やかな彩色とか立体的な表現の工夫が見られるようになります。敦煌壁画っていう仏教絵画なんかがまさにそれです。
それでも中国はあくまで「線」で表現する絵画にこだわって、そこで誕生したのが「皴法(しゅんぽう)」と呼ばれる水墨画独特の技法です。
皴法はシワみたいに線を描いたり、そのシワみたいな薄い線の中にさらに上から線を乗せたりするという技法でございます。
【水墨画の歴史】唐時代(西暦618年〜907年)
「遣唐使」と呼ばれる集団を派遣するほど日本が憧れた王朝が「唐」です。唐の法律をソックリそのままパクって日本に持ち帰ったのが「大宝律令」です。
水を使って濃淡を表現した「水墨画」が成立してキチンと記録として残っているのはこの唐の時代の後半。
日本ではちょうど奈良に都をおいたり京都に都をおいたりしてた平城京とか平安京とかそのあたり。
その頃、おとなり中国大陸では荊浩(けいこう)さんという画家が活躍していました。
荊浩さんは水で薄めた灰色の墨を「この薄い墨を絵画に使ったら面白いんじゃね?」と、水墨画をこの世に爆誕させた人です。
今や水墨画の代名詞と言ってもいい「山水画」はこの荊浩さんが南北朝時代にあった山水画を発展させたもので、山水画の地位を格段に上げました。
彼がもしこの世にいなかったら水墨画はここまでの発展を遂げていたかどうか分からない、それぐらいの功績を残した素晴らしい画家さんです。
それまでの墨絵は「白描画」と呼ばれてて、均一な輪郭線で描くものでした。
その輪郭線に抑揚をつけて太くしたり細くしたりして輪郭に表情をつけたり、さらには墨の濃淡で「面」を表現したのが荊浩さんです。
荊浩さんがどういった経緯で灰色の墨を絵画に使おうと考えたのかは定かではありませんが、画家というのはいつの時代も変態なので、ひとりで黙々と作業することを好みます。
そういったことを考慮に入れると、おそらく荊浩さんはいろいろ試行錯誤を重ねてたんでしょうね。何か新しいことはできないもんか?ってブツブツ言いながら。
そんな中、墨を磨っている最中なのか、墨を磨りきった後に水で墨を薄めたのかはわかりませんが、「この薄い墨を使ったら何か新しい表現が生まれるのでは?」と気づいたと思うんです。
墨絵がこの世に誕生してからおよそ1000年もの間、薄い墨は一切使われたことがないんです。記録上では。
でも墨って硯の上で墨を磨ることでだんだん濃くしていくもので、それは墨というものが生まれてから今日に至るまで何ひとつ変わっていないんです。
なので、薄い墨の存在は最初からあったハズで。
でもそれを絵画に使った記録がどこにも残ってないっていうことは、もしかしたら薄い墨を絵画に使うことは邪道とされていたのかもしれません。
荊浩さんはその薄い墨を「面白い」ととらえて絵画に使うことを思いついた。
そしてその薄い墨には段階があることにも着目して、グラデーションという概念を生み出して「山水画」という新たな墨絵の道を開拓した。
そこに関しては僕の知る範囲では記録が残っていないので想像の範疇を超えることはできませんが、概ねそんな感じじゃねーかなと思っています。
人間は変化を恐れる生き物で、新たな道を開拓する人を毛嫌いする傾向があります。
それは日本ならではのことで昔の中国でもそうだったかどうかなんてしりませんが、人間の本質は今も昔も変わらないところがあるので7割ぐらいは信ぴょう性があるんじゃないかと。
彼の著書の中で「水暈墨章のごときは我が唐代に起こる」という言葉を残していて、それが水墨画の語源とも言われています。
その言葉の裏にはいろんな苦難の道があってようやく乗り越えたのだ、と読み取ることもできます。
ほぼほぼ僕の個人的な見解です。
タイムマシンでもない限り真実を確かめることはできませんが、そんな仮説もロマンがあってステキじゃないですか。
【水墨画の歴史】五代十国時代(西暦907年〜960年)
荊浩さんによる「山水画」が誕生するまでは、宗教画とか壁画みたいな着色画がメインの絵画として流行していました。
それは墨で描いた線に顔料で着色した絵画で、日本でいうところの大和絵みたいな感じです。
山水画が確立すると、それまでの中国で主流だった着色画にとって代わって「水墨画」が中国画の主流になっていったのがこの時代です。
この時代に水墨画はさらなる発展が見られるようになり、いろんな技法が誕生しました。
輪郭線を描かないで表現する「没骨法」は花びらとか竹とかをひと筆で表現する技法です。
水墨画独特の表現手法の「撥墨法」もこの時代に生まれました。
撥墨法は大量の薄い墨で大まかに形を描いて、そこに濃い墨をたらしてぼかしを表現する手法です。
いろんな技法が開発されて、そこからいろんなジャンルが枝分かれするようになりまして、文人画、花鳥画が新たなジャンルとして確立するようになります。
【水墨画の歴史】北・南宋時代(西暦960年〜1279年)
宋の時代は北宋と南宋のふたつの王朝が存在していたのですが、それを明確に区別することは難しいってWikipedia先生がおっしゃってたのでまとめました。
この時代になると水墨画は完成します。
このへんから「水墨画とは何か」みたいな探求が始まって、さらなる発展を遂げていきます。
南宗画(なんしゅうが)
南宗画は中国大陸・江南地方の平坦な地形と温暖な気候風土を描いた山水画です。
南宗画のことを「文人画」とも呼ぶこともあります。
文人は中国で文章とか書画の能力に秀でた人のことで、日本でいうところの官僚とか有識者みたいな存在で、要は「文化人」です。
その文人が描いた絵ということで「文人画」と呼びます。
南宗画=文人画というイメージがついていたりするのですが、厳密にはそうではなくて、影響力を持った文人が南宗画を描いて、それが民衆の皆さまに広まって水墨画が市民権を得た、といった感じです。
近代日本でいうところの志村けんがじゃんけんで「最初はグー」を仲間内で使ってて、それをコントでやったら日本国民全員が使うようになった、みたいなノリでしょうか。
ちなみにですが、文人画は文人がお遊びで描いた「素人画」とも呼ばれていたりします。
北宗画(ほくしゅうが)
南宗画が南の方の穏やかな自然を描いたのに対して、華北地方の険しい山岳とかゴツゴツした岩山を描いたものを「北宗画(北画)」と呼んでいます。写実的で緻密な画風が特徴です。
北宗画は「院体画」と呼ばれることもあって、その字のごとく、王侯貴族から報酬を貰って絵を描く「職業画家」が多く描いていました。
北宗画も南宗画も同じ「山水画」から派生したものなのですが、北宗画は南宗画に比べるとその地位は決して同等とは言えず、南宗画の方が価値は高かったようです。
同じ山水画でも描く人の身分や格式によってその価値が変わる…。
これはいつの時代でもどこの国でも同じですね。
ちなみに。
山水画の「山水」は中国語でいうところの「風景」っていう意味なのですが、風景は風景で同じ意味の言葉が中国語には存在していまして。
なので、山水画の山水は文字通り山と水、つまり大自然よりの風景画、と解釈することができます。
そういう意味では南宗画も北宗画もその土地の大自然を描いたものなので、どちらの方が優れているとかではなく、それぞれ素晴らしい芸術です。
ドラゴンボールとドラえもんは比べるようなものじゃない、っていうのと同じです。
花卉雑画・花鳥画
山水画・南宗画・北宗画の後、北宋時代の末期に「花卉雑画(かきざつが)」という新たな水墨画のジャンルが誕生します。
花卉は花の咲く草とか観賞用に栽培する植物っていう意味で、要するに花の絵のことです。
それまでは大きな自然を描いてきた山水画から身近にある花や草を描いたものに変貌を遂げたものです。
蘇軾(そしょく)という文人がその道を開拓した、と言われています。彼は中国では非常に影響力の大きい人物で、政治・文学・書家としても活躍しました。中国文化史は彼無しでは語れない、と言われているほど。
花卉雑画はそんな蘇軾のお遊びで誕生したもので、何ものにもとらわれない、自由な画風で描かれています。それまで記録的、再現的といったちょっとお堅い意味を持つものとして描かれてきた絵画を、自己表現の手段として広げていきました。
その一方で職業画家たちの皆さんは花鳥画と呼ばれる宮廷好みの彩色された緻密な表現の絵画を描いていました。同じ花を題材にしても文人の皆さんとは違って本職なので、その写実的で緻密な表現はハッと息を飲むほどの存在感があります。
花鳥画は工筆画とも呼ばれていて、北宋時代末期には皇帝自ら筆を持って芸術の発展に力を注いだといいます。
山水画、文人画、花鳥画、大きく3つの流れができて、中国の水墨画文化はここで完成されます。
それが水墨画の究極形になって、その魂は今日まで引き継がれております。
それまで大画面だった山水画が小さい画面に変わっていきます。
構図にもいろんな工夫が見られるようになり、小さい画面で奥行きを感じられるような構図が生まれたりしました。
中国の水墨画はだいたいそんな感じで生まれて発展して今日に至ります。なので日本でいうと鎌倉時代にはすでに現在の水墨画の基礎みたいなものが出来上がっていたんですね。鎌倉時代は源頼朝さんの時代です。
さて。
それが日本にどういう形で伝わってきたのでしょうか。
【日本の水墨画の歴史】奈良時代(西暦710年〜794年)
水墨画が日本に初めて伝わったのは奈良時代のことです。平城京とか平安京とかそのへん。
#バカがバレる
お隣中国では唐の時代。遣唐使の方々が唐からいろんなものを持ち帰った中に「墨絵」が混ざっていました。
その影響で枕草子みたいな絵巻物とか仏画は白描画で描かれるようになりました。
紫式部の源氏物語にも墨絵の挿絵が入っています。
【日本の水墨画の歴史】鎌倉時代(西暦1185年〜1333年)
「水墨画」がようやく日本に伝わってきたのが鎌倉時代のことです。いい国(1192)作ろうって覚えてたのがある日突然いい箱(1185)作ろうになったあの鎌倉時代です。
荊浩さんが水墨画を誕生させてからおよそ300年経った頃のお話。
この頃の中国の絵画とか工芸品は高級品としてお殿様たちに大変人気だったようで、中でも水墨画は特に人気が高くて、お殿様たちはこぞって絵師たちに「中国の水墨画のような絵を描いてほしい」と依頼するほどだったそうな。
この時代は中国と禅僧(お寺のお坊さん)の行き来が盛んで、それと一緒に水墨画は日本にやってきました。
なので、水墨画と禅はとっても深い関わりがあって、お寺の修行の一環として水墨画を描くということがありました。
かの有名な水墨画家の雪舟さんも幼い頃禅僧としてお寺で修行に励んでいて、そこで水墨画の腕をメキメキ上げていきました。
【日本の水墨画の歴史】室町〜戦国時代(西暦1336〜1600年)
足利尊氏が室町幕府を開いた1300年代。
お隣中国では「明(みん)」の時代です。
日明貿易で織物、書画、工芸品、印刷術、水墨画などなど、いろんな文化が日本にやってきていました。
足利家はなんだかんだ240年も続いていて、その間お寺を庇護したり、文化面にも力を入れていたので、この頃水墨画は全盛期を迎えます。
周文、如拙といった画僧(絵を描く専門の僧)が世に出て草分け的存在になった後、水墨画界の英雄「雪舟」さんが登場して日本の水墨画の歴史を変えました。
雪舟さんは本場中国に渡って山水画などの画法を学んで日本に持ち帰りました。
彼が後世に与えた影響は凄まじくて、後の狩野派などをはじめ、多くの人たちを魅了しました。
狩野派は狩野正信という水墨画家が室町幕府の御用絵師になったことから始まった画家集団で、ここから幕末までおよそ400年もの間、日本の画壇のトップに君臨し続けます。
とまぁ、こんな感じでこの時代の水墨画って凄かったんですよ。#語彙力
何が凄いって、狩野派一族が幕府の御用絵師になったことがすべての始まりです。
幕府という最強のスポンサーがいるから食いっぱぐれることがないのです。そして幕府の力によって絵の価値は爆上がりするし、庶民の間でも認知される。絵描きにとってこんな恵まれた環境はないですね。
【日本の水墨画の歴史】江戸時代(西暦1600年〜1867年)
1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が政府の実権を握ると、そこから約300年、江戸幕府として日本の頂点に君臨します。
室町幕府もそんなに変わらないぐらい実権にぎってたのにどうしてこんなに認知度に差があるのかは謎です。
それまで、足利氏、織田氏、豊臣氏と権力者が変わっても画家集団「狩野一族」はずーっと御用絵師でしたが、江戸時代になってもそれは変わらず、相変わらず御用絵師として常に日本の画壇にトップとして君臨し続けます。
江戸時代の水墨画は狩野派のためにあった、といっても過言です。
そんな狩野派一族が師として崇拝したのが「雪舟」氏です。
日本のトップに君臨する人たちが崇めちゃったもんですから、雪舟さんの株はうなぎ登りで神格化します。
そうなると、各地のお殿様たちはみなさんこぞって「ならば雪舟のような絵を描いてほしい」と、雪舟風の水墨画を求めるようになりました。
時を同じくして「俵屋宗達」が「本阿弥光悦」に才能を認められて始まった流派、「琳派」が誕生します。
狩野派が家族とか親戚で形成されていたのに対して、琳派は今でいう「フリーランス集団」です。
でも当時から「琳派」と呼ばれていたわけではなくて、彼らは自由な画風を信条にして水墨画を描いていたのを、後世の人たちが勝手に「琳派」と名付けたのです。
なんでもかんでもひとくくりにしたがるのが日本人の習性です。
この頃の日本の画壇は狩野派一族がトップに君臨していましたが、なにも絵師は狩野派だけではありません。
江戸幕府が安定して文化が成熟していくといろんな絵師が登場してきます。
伊藤若冲、池大雅、円山応挙、などなど、個性派ぞろいの絵師たちが、狩野派と切磋琢磨して日本の画壇のレベルをより一層引き上げました。
粉本の存在
狩野派一族を語る上で外せないのが「粉本」です。
「粉本」はお手本のことで、狩野派一族はこの粉本で巨大な組織にのし上がりました。
狩野派一族の役割は個性的な絵ではなく、権力者の要望通りの絵を描くことです。
なので狩野派の作品は「個性」とは無縁の「皆同じ絵」だったのです。
それが果たしていいのか悪いのか。。。
【日本の水墨画の歴史】幕末〜明治(西暦1853年〜1912年)
長く続いた江戸幕府も15代将軍・徳川慶喜が大政奉還して終焉を迎えます。幕府が権力を失うと同時に、幕府をパトロンにしていた狩野派一族も御用絵師としての役目を終えました。
彼らが後の美術界に与えた影響は多大なもので、彼らがいなかったら今日の水墨画はどうなっていたのでしょうか。
そんな世界線も面白いかもしれません。
当時は家業を継ぐのが当たり前の世の中で、狩野家も当然のようにその家に生を受けた子どもは絵師としての教育を仕込まれます。
その中で粉本の絵を模写して代々同じような画風で統一させられていました。
生まれた時点ですでにレールを敷かれているので抗うことはほぼ不可能です。おそらく抗おうという考えすら思いもつかない状況だったのだと思われます。
でもそれはちいさいころからそれを叩き込まれてるからで、外から絵を学びに来た人の中には
「狩野派で学んでいる限り自分の画法を築けない」と、気に入らなくてやめていった画家もたくさんいることは事実です。
絵は「個性」の世界なので、無理やり画風を統一させてしまったらその人の個性は潰されてしまいます。
もし。
誰かがその風習をぶち壊していたら、、、
もっと誰もが自由に表現できる世の中になっていたら、、、
今の日本の美術界はどうなっていたのでしょう。
そんなことを考えても仕方ないのですが、ちょっと見てみたかったなぁという気がします。
案の定というか、そこまで権力が拡大したにも関わらず、幕府がなくなった瞬間に狩野派一族は終焉を迎えています。
もし絵に本当に力があったのなら、そんなことで終わることなく、もっと続いていたんじゃないかなぁとも思ってしまいます。
そして明治維新で西洋の文化が一気に大量に入ってくると、大衆の皆さまは油絵とか西洋美術に関心がいくようになりました。
そうなると水墨画はどんどんマイナーなものになっていきます。
西洋美術に負けまいと、横山大観、岡倉天心、菱田春草らが必死で抵抗していましたが、それまで鎖国国家だった日本は西洋の文化がもの珍しくてたまりません。
必死の抵抗も虚しく、歴史と伝統のある水墨画は国宝にもなったりして、どんどん敷居が高くなっていって「一見さんお断りの高級老舗料亭」のような雰囲気になりました。
マイナーに拍車がかかります。
【日本の水墨画の歴史】〜現在
それからおよそ100年の月日が流れた現在、まだまだ一般的な認知は低いですが、ひとつの「アート」として、少しずつ水墨画が市民権を得てきたんじゃないかなと思います。
それもこれもインターネットがこれだけ普及したおかげかなーと。
僕自身、水墨画に対してはすごく「古くさい」とか「一見さんお断りの高級老舗料亭」みたいな厳かなイメージを持っていました。
それはまだインターネットがなかった小学生の時とかのお話です。ネットで自分でいろいろ調べることができるようになって、いろんな水墨画があることを知ってからは「やってみたい!」という気持ちになりました。
今度は自分がそういう人々を魅了する水墨画を描いて、「やってみたい!」をまだ水墨画の魅力に気づいていない人たちに味わってもらいたいと思っています。
日本と中国の水墨画の違い
日本と中国の水墨画の歴史の流れをみてきましたが、大きく違うのは中国画は叙事的で日本は叙情的であるということです。
叙事的っていうのは「事実をありのままに表現する」っていう意味で、ビジネス書とか実用書みたいな感じです。
平たくいうと説明的な絵っていうことです。
叙情的っていうのは「感情や気持ちがじんわりと外にあふれ出るような雰囲気」っていう意味で、小説とか詩集みたいな感じです。
絵に感情をのせて染み渡るような絵ってことです。
それぞれの国や文化でそれぞれの発展を遂げた結果ですが、モロに国民性が出てる感じで面白いですね。
まとめ
水墨画の歴史をお届けいたしました。
歴史を知ることで、自分自身の絵にも影響が出て表現が深くなったりします。
絵ってそういう魔法みたいなことが起きるから面白いのです。
描く時に「あぁ…これは3000年の歴史を、人々の想いを紡いでるんだなぁ…」と、そんなことに想いを馳せて水墨画を描いてみてください。
すごくいい絵になると思います。
それでは長々とご清聴ありがとうございました✨
コメントを残す