愛って何なのかと疑問を持った時点で幸せなんだということ

「愛って何?」

これを聞かれたらあなたは何と答えますか?

 

成長していく過程で「誰にも愛されてない」とか「愛するってどういうこと?」とか、そんなことを思い始める時期ってあると思うんです。

遅かれ早かれ。

そんなことを考えれるのってすごく幸せなことだなぁと思うんですね。

心に余裕がなかったらそんなこと考えれないと思うので。なのでここにたどり着いたあなたはたぶんすごく幸せものです。

そこにまだ気がついてないだけなんです。

全人類共通の答えがあるわけではないですが「愛とは何なのか」、僕なりに考えてみたのでここに記しておきます。

 

愛って何?

 

 

愛: そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。

かわいがり、いつくしむ心。

 

愛という言葉を調べてみたところどれもこれも抽象的で、これといった定義は特にないようです。

にもかかわらず、いや、だからこそというべきか、愛をテーマにしたものが世の中にはゴロゴロあふれております。決まった形がないからそれぞれ独自の感性で愛を語ってる。

それってホントに千差万別、違った形で愛を表現してて、そんな形の愛もあるんだなと思うこともしばしばです。照れくさくてなかなか思うように表現できてない愛もあれば、それで伝わってるの!?っていうようなものがあとからズドン!ってきたり…。

しかもそういうのって関係性によっても違ってて、親子の愛、男女の愛、師弟愛、兄弟愛、家族愛。

愛は一緒ですがやっぱりどこか微妙に違ってるんですね。

親子愛なんて父親の愛と母親の愛でも全然違うし、血のつながった関係の愛が強いのかというとそんなこともなくて、むしろ血がつながってないほうが愛が強いなんてこともある。

ホントに同じ形の愛ってないんだなぁと痛感させられます。

 

でもどれもこれも共通して言えることは思いやりの気持ちがあふれているということです。

 

それをまわりが見たときに「そこに愛がある」って感じることができたら、そこには「愛」があるんですけどだいたい当の本人たちは無意識ですよね。

少なくとも「これが愛だ」なんて1ミリも思ってない。

 

愛のお話

 

たとえば、お腹を空かした母親と小さな子どもがいて、食べるものがパンひとつだけだとします。

そんな状況で母親のとった行動は自分が食べたい気持ちなんかそっちのけで小さな子どもに「全部食べていいよ」と言います。

そしたら子どもは喜んで食べます。このとき子どもが「あー、おいしかったー」なんて言葉を発したらどうでしょう?

それだけで母親は胸がいっぱいになります。自分のお腹のことなんかどうでもよくなってしまいます。

自分がお腹を満たすことよりも小さな子どもがお腹を空かしてるのを見ることのほうがツラい。子どもが喜んでる姿が何よりうれしい。

これが母親の子どもに対する絶大な愛です。

 

子どもってすごく敏感なのでお母さんもお腹が空いてるっていうのを感じ取っちゃうんですね。なのでそんな母親を見て、「お母さんも食べて」なんて言ってきたら。

僕が母親だったら号泣します。書きながら泣きそうです。

こんなにも小さい子が大人である私のことを想ってくれてる。

自分もお腹ペコペコなはずなのに。そんな嬉しいことないですよね。

母親は子どもにそんな気持ちがあるというだけでお腹いっぱいになってしまいます。

 

お互いがお互いを思いやってそれぞれ行動に移した。

この親子の間にはあふれんばかりの愛があります。

 

でも当の本人たちはそのときに愛とかそんなこと考えたでしょうか?

 

絶対考えてないですよね。

 

まわりから見たときにはじめて「それって愛よね」とうなずくぐらいです。

 

長い説明になりましたがこれが俗にいう「愛」という言葉の意味ですね。

愛とはつまり「思いやりの心」なんですね。

 

すでに愛を知っている?

 

さっきの親子の話を聞いて涙腺崩壊しそうになったり胸がジーンと熱くなるような人は愛を知ってる人です。

知ってるからこそ自分に重ねて心が動いたんです。人はそういうときに自分と重ねる心理が働きます。

 

「知ってる」っていうのは自分が愛されたことがあるかどうかは別問題で、本で読んだとか映画で観たとかでもいいんです。

そのときに今と同じように心が動いて涙を流したり、胸が熱くなってたら愛が何なのかを知ってるっていうことです。

 

「これって愛なんだ」っていういろんな形の愛を知ってたら「私今愛されてるんだ」とか「あのときのあれは愛だったんだ」って認識できて急に愛おしくなってきたりしますね。

そうやって気持ちが伝わってお互いがちゃんと認識できた瞬間、そこに「愛」は生まれてます。

見返りを求めないのが愛

 

さて。これまでの話で愛って何なのかがなんとなく掴めてきたんじゃないかと思います。

どうやら「愛」は全力で相手を思いやれるかどうかなのですが、人それぞれ感じかたが違うので、相手が何に喜びを感じるかどうかを知ってないと成立しないんですね。

一方的にこれは喜ぶだろうと思ってやってみたところで、まったく見当違いだったらただの自己満足になってしまいます。むしろ大きなお世話です。

本当に相手のことを思いやるのなら、何に対して喜ぶのかを徹底的にリサーチしまくって「これなら大丈夫!」というところまでもっていって、それでも実際にやってみないとわからない。それをいざやってみたときに喜んでくれたらその瞬間にホッとしてもう自分がしてきた苦労なんかどうでもよくなって「笑顔がみれてよかった」ってなるのが「愛」です。

 

「愛してる」という言葉で喜ぶなら恥ずかしさを捨ててその言葉を言うのも「愛」です。それで相手が喜んでくれて嬉しくなって自分が恥ずかしいことなんかどうでもよくなったらそれは「愛」です。

愛は見返りを求めてしまったら愛ではなくなります。

それが愛なのかどうかはまわりが判断すること。

「愛」は思いやりの心だったんですね。

 

 

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