絵が上達しない人が練習する過程であるものを忘れがちな件について

絵がなかなか上達しない。

描いても描いてもなかなか上手くならない。

 

そんなあなたに朗報です。

絵を上達させようと思ったら、単純な技術の話ではなくなります。

技術だけを追い求めてしまうと、

中身のない薄っぺらい作品になってしまいます。

そこにプラスアルファになるナニカがなければ

真の上達とは言えないのではないでしょうか。

 

気持ちを置き去りにすると中身のない絵になる

 

 

絵を練習する過程でどうしても技術ばかりを追い求めてしまいがちです。

小手先の技術ばかりを追い求めた結果、中身がない

ぺらぺらな絵になります。ぺらぺらな絵では、見る人の

心を動かすことはできません。

 

心が動かなければそれはただの「どこにでもある絵」になってしまいます。

 

では中身のある絵とは何でしょうか?

これは人それぞれ、感覚の違いがあるので

一概にどうこういうことは不可能です。

 

ある人が「これは中身のある絵だ」と言ったとしても

あなたが「どこが?」となってしまったら

その絵には中身がないということになってしまいます。

これは絵も含めた「芸術」というものの永遠のテーマだと僕は思っています。

絵には正解も不正解もないのです。

 

あなたにも好きな絵とそうでない絵があると思います。

僕にも好きな絵とそうでない絵があります。

ピカソの絵は僕は好きではありません。

でもあの絵が好きだという人はたくさんいらっしゃいます。

そして歴史に名前を残すような巨匠です。

 

そんなものなのです。

 

絵も含めた「芸術」とは作品を作った側と、鑑賞する側が

お互いに感動することで始めて成り立つもの。

ということは波長が合いさえすればそれでオーケーなわけです。

その波長が合うか合わないかはもはや運ゲーです。

 

ゴッホがまさにそんな感じです。

彼は生涯絵を描いて過ごしていましたが、

生前にその絵が評価されることはありませんでした。

ゴッホが持つ波長と合う人が彼が生きている間には現れなかった。

でも彼が死んでから波長が合う人が現れ、

それが高く評価されて彼は歴史に名を残す画家になった。

それだけのことです。

これは諸説あるので真偽のほどはわかりませんが、

僕が言いたいのはそんなことではないので省略します。

 

時代に名前を残すような作品には共通点があります。

そこに込められた熱量が凄まじいということです。

 

作品に込められた熱量が多ければ多いほど波長が合う人が

それを鑑賞したとき、その感動は心を鷲掴みされたような気持ちになります。

この熱量は好きかそうでないかの判断材料とはまったくの別モノです。

熱量というのは僕は「ナニカ」と呼んでいます。

ナニカは体の中に蓄積します。

 

絵を描くことが本当に好きで描いている人は

生活すべてがそこに持っていかれてしまいます。

常に頭の中では自分が感動するものを探し続けています。

それは意識してそうしているわけではなく、

頭が勝手にそうなってしまっています。

 

意識がそこに常にあると、ナニカはどんどん蓄積されていきます。

その蓄積したナニカが作品の中身に直結します。

 

 

日常生活で溜めたものを解き放つ

 

 

日常生活の中でナニカを蓄積するためには常に頭の中に

絵を描くというアンテナを張り巡らせていればいいのです。

そしてそれを紙に向かったときに一気に解き放つ。

それが中身の詰まった作品を作るということにつながります。

 

たとえば花を一輪見つけたとします。

その花を絵にするためにはどうすればいいか。

それを常に頭の中で考えていれば自ずと意識はそこにたどり着いて、

どんな構図にすれば感動できる絵に仕上がるか、 花だけを描くのか、

ほかに何か登場させるべきか、風に吹かれて揺れているのか、

無風でピタッと止まっているのか、などなど、

そんなことを考えれば考えるほど、ナニカはどんどん蓄積されていきます。

 

一輪の花といえども、最初から花というわけではありません。

種から始まって、土に根を張り、

地上に芽を出して茎が伸びて葉をつけてツボミを作る。

それまでの過程で二酸化炭素を吸って酸素を出して

光合成をしながら少しずつ成長していきます。

 

何週間、何ヶ月という時間をかけてようやく花は咲きます。

そんなところまで想像すれば花も生命であることがわかります。

そんなことまで想像すれば花にある種の愛着が湧いてきます。

この“愛着”が作品を作るうえで最も大切なことだと僕は考えます。

 

気持ちが入れば入るほど細かいところまでこだわります。

 

絵を描くという芸術はそんな自分の中に

蓄積したナニカを一枚の紙の上に解き放って表現すること。

それが絵を描くということです。

 

 

そういう「気持ち」がなければ中身のある作品には仕上がりません。

それを日々、体の中に溜め込んでいくのです。

そしてそれを描くときに一気に解き放つ。

それが中身の詰まった作品を仕上げることになります。

 

モチーフの気持ちを考えてみる

気持ちという点でもうひとつ、モチーフの気持ちを考えてみましょう。

これまで語ったきたことはあくまで絵を描く人の気持ちです。

 

こちら側の気持ちは常にそこに意識していればいいのですが、

今度はそれをモチーフ側にシフトしてみます。

先ほどの一輪の花を擬人化してみるとわかりやすいですね。

 

種になって芽を出して、茎が伸びて葉をつけてツボミを作る。

その過程でどんなドラマがあるのか、花はどんな気持ちなのか。

そんな生まれてから今までの経緯や心境を自分と重ねてみましょう。

 

花は自分で動くことができません。

動くことができないので自分から栄養を獲りに行くことはできません。

向こうからやってくるのを待つばかりです。

 

雨や風が花にとっては天からの恵みです。

雨は根や茎を成長させるために必須アイテムです。

風は花粉を飛ばして新たな生命を作るためには欠かせません。

しかし、自分で動くことができないゆえの危険もたくさんあります。

動物に食べられてしまうかもしれません。

人間に摘まれてしまうかもしれません。

 

もしかしたら「こないで〜!」とか考えてるかもしれません。笑

花にも感情があると考えるのです。

そうすることで自分だけのオリジナリティのある作品が仕上がります。

 

まとめ

 

絵の上達には技術が必要なのはいうまでもありません。

が、絵は見る人の心を動かさなくては絵としての意味を成しません。

どうせ描くなら自分も感動してそれが

見る人にも伝わればそんな嬉しいことはないでしょう。

 

そのために技術だけを追い求めては、

ただの「上手いだけの絵」になってしまいがちです。

 

自分の気持ち、見る人の気持ち、モチーフの気持ち、

いろんな気持ちを考えてそれを練習に組み込んでいけば、

必ず素晴らしい作品が出来上がります。

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