幸せはそこらへんにたくさん転がってるものです。
たとえば朝起きてトイレに行って顔を洗って朝ごはんを食べる。
そんな毎日やってる当たり前のようなことを「幸せ」ととらえることができる人がどれぐらいいるでしょう。
もっというと、普通に朝を迎えて一日が始まることだって当たり前じゃない。
たとえば戦争の渦中にいる人にとっては、いつ攻撃されるかわからない、という不安が常に隣り合わせだから、もしかしたら寝ている間に命を落としてしまうかもしれない。
そんな人にとっては太陽がのぼって朝が来ることがものすごく幸せに感じるのです。
「あぁ…今日も無事に朝を迎えることができた…」と。
幸せってそこらへんにたくさん転がってます。
でもほとんどの人はそんなことに幸せを感じることはないのです。
それは不幸を知らないから。
知っててもそれを自分事ととらえないから今の自分がどれだけ幸せであるかがわからないのです。
そんな人に限って「自分は不幸だ」といいます。
その人のことを羨ましがる人はたくさんいるのに。
そう考えると確かにその人は「不幸」です。
そんな日常に幸せを感じることができないのだから。
どこに幸せを感じるかは人それぞれだけど、ひとつだけ確実に言えるのは、「現状よりもマイナスなことが起きた時に現状がいかに幸せかということを知る」っていうこと。
朝起きてトイレに行って顔を洗って朝ごはんを食べることが当たり前だと思ってたらそんなことに幸せを感じることはありません。
でもたとえば全身に大やけどで包帯グルグル巻きの人だったらどうでしょう。
全身大やけどで包帯グルグル巻きなので身動きがとれません。
朝目が覚めて目を開けることはできても起き上がることができない。
もちろんトイレに行くこともできないので「しびん」もしくは管を通して用を足します。
朝ごはんも食べれないので点滴で栄養をとります。
そんな人からすると、朝目が覚めて起き上がってトイレに行って朝ごはんを食べるという、日常の当たり前のことが「いいなぁ…幸せだなぁ…」と、とてもうらやましく思います。
日常の当たり前が当たり前じゃなくなった時に、はじめてそれが幸せなことだったんだと気づきます。
有り難い、と。
「有り難い」っていう言葉は「有る」ことが「難しい」という意味で、普通だったら有り得ないことが起きた時に使った言葉です。
昔の人はそれを「有り難や、有り難や」とか「有り難き幸せ」といって感謝の気持ちを述べていました。
全身に大やけどで身動き取れない人にとってはそんな日常の動きすら現状では「有り得ない」わけで、やけどが治ってそれができるようになった時、「有り難い」と感謝の気持ちが生まれます。
つまるところ、「幸せ」っていうのは、日常のいろんなところに感謝できるかどうかで変わってくるものなのです。
いろんなことに心の底から感謝できるとそれがイコール幸せになる。
感謝の気持ちが生まれずに不平不満ばかり感じる人はたぶん一生幸せにはなれない可哀想な人。
感じるだけなら何の問題もないですが、それを口に出してしまうと聞いた人はたまったもんじゃありません。ものすごくいたたまれない気持ちになってしまいます。
どこかでそこに気がつけばいいのですが。
たぶん気づけないでしょう。
個人的な話になりますが、1週間ほど上海に行ってた時に現地の食事が全然口に合わなくて、毎日の食事の時間が地獄でした。
毎日普通に食べてた日本の食事が当たり前になってて、そんなことに感謝の気持ちを覚えたことはありませんでした。
でもたった1週間、それがなくなったことで今までなんて幸せな時間を過ごしてたんだろう、と気づきました。
とにかく早く日本食を食べたかったのですが、どこに行っても味の違いが否めません。
日本に帰るまでガマンするしかなかったのです。
そして帰国して真っ先に向かったのはファミレス。
時間も遅かったのでファミレスしか開いてなかったのですが、そんなことどうでもいいぐらい、とにかくなんでもいいから日本食が食べたい。
そんな気持ちで食べた「生姜焼き定食」の味はたぶん一生忘れることはないでしょう。
ただただ美味かった。
ただの生姜焼き定食があんなに美味しいものだと思ったことはありません。
日本食が食べれることの幸せを、僕はこの時はじめて実感して心の底から「有り難い」と感謝の気持ちが生まれました。
上海に行ってなかったらそこに感謝することなんてなかったかもしれません。
行けたことにも感謝だし、そのことに気づかせてくれた上海の食事にも感謝です。
そう考えると世の中幸せだらけ。
それを感じ取れるかどうかはその人の心の有り様です。
幸せ=現状に対する感謝の気持ちの大きさ
これ幸せの方程式。
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