愛とは何か?思いやりが昇華したら愛になる

人それぞれいろんなカタチの愛があります。

男女、親子、兄弟姉妹、師弟、その他もろもろ。

 

いろんな愛がありますが、共通してるのは相手のことを思いやる心が根底にあること。思いやりの心がどんどん深くなって上位互換したものが愛です。

 

思いやりは相手が最優先で自分のことは後回しの精神です。

 

厳密にいうと後回しじゃなくて相手が喜ぶ姿を求めてるので相手も自分も同じぐらいの立ち位置。

 

わかりやすいのは恋愛です。

 

相手のことを好きになって一方的に自分の気持ちをぶつけたいのが恋。

そして見返りを求めるのが恋です。

はじめのうちはとにかく一緒にいたい、とかかまってほしい、とかカラダとかを求めてしまいます。

その時相手がどう思っているかを考えていません。

 

自分の欲求を満たせればそれでいいのが恋です。

 

そこには思いやりの心なんか1ミリもありません。#人によります

 

でも長い時間一緒にいると次第に相手を大切にしたいと思うようになって、自分のことよりも相手のことを考えるようになります。

相手が喜ぶ姿をみると自分も嬉しい気持ちになります。

それが思いやりです。

 

で、その喜ぶ姿をもっとみたい!って思って、よりたくさん相手のことを考えるようになります。

どうしたら喜んでくれるかなーとか。

ちょっとした仕草とか行動とかをみて「あ、これはイヤなんだな」とか「これは嬉しいんだな」とか相手の気持ちを読み取れるようにもなります。

 

そんなふうに思いやりの気持ちがどんどん深まっていきます。その時、相手も同じように思ってくれているとしたら、それが愛です。

 

お互いがお互いを思いやって、それが深まっていつの間にか愛になってます。

 

愛は求めるものでも、与えるものでも、奪うものでもなく、気がつけばそこにあるものです。

#どっかの歌詞

 

なので、一方的に思いやりを持って接してたとしてもそれは愛ではなく、まだただの「思いやり」です。時には思いやりですらなくなります。

 

親子なんかはまさに。

 

子どもはだいたい自分のことしか考えておりません。

 

子どものことを最優先に考えて喜ぶことをしても、それは成長の妨げになってしまう、と親は考えます。

なので子どものことを考えると時には心を鬼にしてイヤがることもしないといけない時もあります。

それは子どもにとってはとてもうっとおしいことです。

 

思春期あたりになると「ウゼェ」と思われてしまって、反抗期に突入することも。

 

でもそれは親は子どもを対等な目線でみていないことが多くて、自分の思い通りにコントロールしようとしてしまっているからです。

 

よかれと思ってやってることも相手のことを考えていなければただのはた迷惑な行為で、それは愛情でもなんでもなく、ただの「エゴ」です。

 

愛の押し売りです。

 

思いやりでもなんでもありません。

 

ホントに思いやりを持って接するなら自分の考えを押し付けるのではなく、子どもが何をしたいのかと、親としての考えとの公約数をみつけてあげることが大切です。

 

たとえば勉強をまったくせず、ゲームばっかりしてる子どもだとしたら、ゲームをやめさせて勉強を強制すると必ずうっとおしく思われます。でも「ゲームを誰にも負けないぐらい上手くなりなさい」といえば少なくともウザがれることはなく、やる気を出してよりゲームに熱中するでしょう。

今の時代はゲームはひとつの仕事としてじゅうぶん成り立つのでそこんところは親が柔軟な考えをもたないといけないし、何よりも子どものことを考えてあげないといけない。

 

弱音を吐いてあきらめようとしたら「あれ?キミのゲームに対する想いはそんなものかい?」とか言って煽ってやればまた奮起してくれるかもしれません。

 

それでもあきらめるならまた次の方向で改めて考え直せばいいのです。

 

そういうことをせずに親の一方的な考えを押し付けると子どもは離れてしまいます。

それが愛情からくるものだったんだ、と気づくまでにはかなりの時間がかかります。

 

なんなら気づかないまま一生を終えてしまうこともあります。

 

思いやりって大事です。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください