こんにちは。
水墨画家のDと申します。
本日は水墨画について詳しく解説したいと思います。
水墨画は墨絵の一種で、真っ黒な墨と水薄めた灰色の墨、紙の色の白、3つの色で表現したモノクロの絵画です。
これが水墨画です。
水墨画の最大の特徴はなんといっても水を使って墨をぼかしたりにじませたりして画面に奥行き感を与えたり、立体感を表現することです。
これがなかったらもはや水墨画じゃないと言っても過言ではありません。
「水暈墨章(すいうんぼくしょう)」という言葉があります。
これは「水で暈(ぼか)した墨はなんともいえない美しさがある」という意味で、水墨画の語源と言われています。
水暈墨章
西暦700年ごろ。
おとなり中国で荊浩(けいこう)さんという人が墨を水で薄める実験をしていました。
彼は灰色になった墨をみて何やら心を躍らせていました。
これを使って絵を描いたらめちゃくちゃ面白いんじゃね?と。
水墨画はそんな感じでこの世に誕生した、といわれています。
このときに荊浩さんが自身の著書の中に残したのが「水暈墨章は我が唐代に起こる」という言葉です。
この言葉から読み取れることは、当時は「墨を水で薄める」なんて発想がまったくなかったのかもしれない、っていうことです。
そうじゃなかったらわざわざ「起こる」なんて言わないと思うんですよね。
(もしくは自分の手柄にするためにあえてそういう言葉を使ったとか……(笑)まぁでも「我が唐代に」って言ってるだけなので「おれがやったんだ」と解釈するにはちょっと無理があるような気もします)
でもどっちみち、それまでは墨を水で薄めるっていう行為がスタンダードではなかった、ということは間違いなさそうです。
それを荊浩さんがぶち破ってこんなにも素晴らしい絵画を誕生させてくれた、と僕は信じたいです。
そんな水墨画が中国から日本に伝わってきたのは今からおよそ800年前。
鎌倉幕府が誕生したあたりのころの話です。
その前の平安時代、中国で荊浩さんが水墨画の実験をしていたころ、日本に伝わっていたのは「墨絵」だけで、およそ400年もの間、水で薄める水墨画は日本にはなかったとされています。
でも、それだけ時間があるのなら、絶対どこかの好奇心旺盛な誰かが墨を水で薄めて遊んだりしてたハズ。
記録には残ってないだけで。
そんな妄想をふくらませてみるのも面白いんじゃないかなと思ったり。
いろんな水墨画
水墨画は中国で誕生してから1000年以上、日本だけでも800年ほどの歴史があります。
これはいろんな絵画の中でも最も古い部類になります。
油絵とかでも600年ぐらいなので水墨画がいかに歴史のある絵画か、っていうことがわかりますね。
その間、いろんな人がいろんな水墨画をこの世に誕生させてきました。
ほんの一部を紹介したいと思います。
◾️山水画
これは山水画といいます。
たぶん水墨画といえばこんな感じを頭に思い浮かべる人も少なくないハズ。
「山水」っていう言葉は中国語で風景っていう意味なのですが、実は同じ「風景」という言葉が中国にはあります。
なのでここで使ってる「山水」っていう言葉は同じ風景でも文字通り山と水、つまり、大自然よりの風景っていう解釈になります。
それを水墨画で表現したのが「山水画」です。
こんな神々しい山々を日本でお目にかかれることはありません。
山水画の中でも北と南で雰囲気が全然違う感じになっていて、それぞれ「華北山水画」と呼ばれたり、「江南山水画」と呼ばれたりしています。
中国大陸は広大なので、土地柄による文化の違い、緯度による気温の違いでそれぞれ表現方法も変わってくるんですね。
ちなみに北のほうでは上の写真みたいなゴツゴツした感じの山水画が多く描かれていて、南のほうではそんなにゴツゴツした山々はなくて平坦で穏やかな感じの山水画が描かれています。
◾️文人画・院体画
水墨画には絵を職業にしてる人が描いた「院体画」と、それに対して別に絵を職業にしてるわけではない、趣味として描いた「文人画」があります。
なぜにわざわざそんな分類をする必要があったのか?
別に趣味で絵を描くだけならどこの国のどんな文化だろうが普通にありえそうなことですよね。
絵を職業にする人が描いた「院体画」はまだなんとなく理解はできますが、気になるのは「文人画」のほうです。
中国ではその昔、「学問を修め文章を生業にする人」っていう意味で「文人」という身分的なものが存在していました。
軍に仕えていた人を武人と呼んでいたので、それに対比して文人という言葉が使われたそうです。
日本でいう「士農工商」みたいな感じです。
もっというと「運動部」と「文化部」みたいなノリです。
つまり、文章を生業にしてる、絵とは無縁な人が描いた水墨画のことを「文人画」と呼びます。
問題はここからです。
なぜあえて「文人画」と呼ぶに至ったのか?
これは結論、文人画がただの趣味の範疇では収まらなくなったからです。
文人画は趣味で描かれた絵なので、自由な発想で伸び伸びと描かれていました。
それに対して「院体画」は絵を職業にする人が描いた絵で、しかもその依頼主が王族とか貴族とか身分が上の人たちです。これを宮廷画家とか言ったりします。
いつの時代も王族とか貴族とかの類の人たちは少し浮世離れしている、というのが世の常です。時代が時代なのでなおさら。
当然、王族・貴族と大衆の感覚にはズレが生じるので「文人が描いた伸び伸びした絵」のほうが大衆には刺さります。
大衆が「伸び伸びした絵」を求めるようになって、文人が趣味で描いた絵で収入を得れるようになりました。
やがてそれだけで生活できるようになる人まで現れてきました。
こうなってくると面白くないのは「院体画」を描く宮廷画家たちです。
彼らの作風は「伝統を重視した写実的な表現」です。
それは今みるととても素晴らしい絵画なのですが、当時の大衆にはあまりウケがよくなかったようです。
自分たちが描いた「院体画」よりも、文人が趣味で描いた絵のほうが人気者になってしまったわけです。
それを妬んだ宮廷画家たちが揶揄的に「文人画」と呼ぶようになりました、とさ。
そんな感じで、「院体画」と「文人画」の違いはザックリまとめると伸び伸び描かれたか否かです。
でもその感覚は当時の人たちの感覚で、今の僕らが感じる「伸び伸び」と当時の人たちが感じる「伸び伸び」にも当然ズレが生じます。
そればかりか、今は昔に比べるといろんなことが自由になったので、人それぞれの感覚がより一層バラバラになっています。
なのでみる人によっては「院体画のほうが素晴らしい!」と感じることもあるだろうし、「イヤイヤ…文人画のほうが素晴らしいよ!」と感じることもあるかと思います。
これは先ほどの「山水画」でも同じことがいえます。
それぞれがそれぞれの想いとか魂を胸に、紙と真正面からぶつかって命を削って生み出した作品である、ということは動かしようのない真実です。
そこに優劣などあろうはずがありません。
いろんな水墨画家
水墨画が誕生してからおよそ1300年。
その間に命を削った作品を生み出した水墨画家がたくさんいらっしゃいます。
ちょっと紹介します。
◾️荊浩
先ほども出てまいりました、水墨画という言葉をこの世に浸透させた、水墨画の生みの親です。この人がいなかったら水墨画はこの世に誕生してなかったのかもしれません。
◾️雪舟
水墨画家といえばおそらくこの名前がいちばん出てくるのではないかと思います。世界的にも超有名な雪舟氏。
6点もの作品が国宝に指定されてるすんごい人です。
⇒関連記事:水墨画で有名な雪舟の生涯と作品をしらべてみたらすんごい人だった
◾️長谷川等伯
雪舟氏の弟子の弟子の息子。
千利休、豊臣秀吉らに重用された、安土・桃山時代を代表する水墨画家です。
あの狩野派とライバル関係にあった、と言われています。
⇒関連記事:水墨画家・長谷川等伯とはどんな人物?生涯と作品を調べてみました
◾️狩野永徳
およそ400年の歴史を誇る画家集団・狩野一族の英雄と呼ばれた水墨画家です。足利義輝、織田信長、豊臣秀吉と、名だたる天下人と対面した、歴史に大きく名を残した画家です。
⇒関連記事:【水墨画家、日本画家・狩野永徳の生涯】狩野一族の英雄
◾️狩野探幽
狩野一族の英雄・狩野永徳の孫。
永徳の死後、一時停滞していた狩野一族の名声を再び高めた人物です。
⇒関連記事:【水墨画家・狩野探幽】江戸狩野派250年の礎を築いた若き天才
◾️宮本武蔵
剣豪としてあまりにも名高い武蔵ですが、その才は剣だけにとどまらず、水墨画、彫刻、書道など、あらゆる分野で功績を残しています。
⇒関連記事:【水墨画家・宮本武蔵】剣豪だけじゃなくて芸術家としても歴史に名を残しています
◾️与謝蕪村
松尾芭蕉、小林一茶、などと並ぶ俳句の人として有名な与謝蕪村。
実は画家としても素晴らしい才能を持った人で、俳句と絵を融合させた「俳画」という独自の芸術を確立させました。
⇒関連記事:【与謝蕪村】実は水墨画も描いてる画家だった与謝蕪村の波乱の人生
◾️伊藤若冲
カラフルでド派手な鶏の日本画を描くことで有名な伊藤若冲氏。日本画だけじゃなく水墨画も描いていて、日本の画壇に多大な影響を与えました。平成後期に人気が爆発して日本各地で展覧会が行われるほどの人気っぷりでした。
⇒関連記事:天才日本画家・伊藤若冲は実は水墨画も描いていた??
◾️円山応挙
その伊藤若冲氏と同世代の水墨画家。二人は、同じ写生を重視するタイプの画家で、ライバル関係のような存在でした。京都の画壇を席巻した「円山派」と呼ばれる画家集団をまとめていたりしました。
⇒関連記事:【水墨画・日本画家】円山応挙:写生を極めた天才画家の生涯
◾️下村観山
横山大観、岡倉天心、菱田春草らとともに日本美術院の創設に参加するなど、日本の美術史を支えた、明治を代表する実力派の天才日本画家です。
⇒関連記事:【日本画家・下村観山】横山大観、菱田春草とともに生きた天才日本画家
◾️横山大観
明治、大正、昭和。
3つの時代を駆け抜けた、近代日本画壇の巨匠のひとりです。彼をひとことで表すなら「豪快」。そんな豪快とはかけ離れたところにある神秘的な作品は日本だけにとどまらず、海外でも高い評価を受けました。
⇒関連記事:水墨画家・横山大観の豪快な生き様と繊細な作品:波乱万丈な人生
◾️菱田春草
日本画界の巨匠・横山大観の無二の親友。
大観に「あいつこそ天才だ。あいつに比べたらおれなんか凡人だよ」と言わしめたほどの才能にあふれた水墨画家でした。
美人薄命とは彼のためにあるような言葉で、若くしてその命を落としてしまいました。
⇒関連記事:【水墨画家・菱田春草】若くしてこの世を去った天才画家の生涯と作品
◾️岡倉天心
横山大観、下村観山、菱田春草らが「恩師」と崇拝する近代日本美術史の父。彼は画家ではありませんが、日本の美術の思想を海外に発信する活動をしていました。
⇒関連記事:【岡倉天心】近代日本画・水墨画に大きな影響を与えた偉大な人物
◾️外崎裕涯
僕の水墨画人生を大きく変えてくれた水墨画家さんです。
彼の作品に出会わなければ僕は水墨画をここまでやってみたい!とは思わなかったと思います。
◾️ごいっき
この方も僕の水墨画人生を大きく変えるキッカケになった水墨画家さんです。
彼の作品の空気感はもはや水墨画という領域をはるかに凌駕しています。
◾️西元祐貴
墨絵を独学で学び、伝統的な技法にとらわれず大胆さと繊細さを持ち合わせたタッチで「躍動感」「力強さ」を追求した作品を展開する墨絵アーティストさんです。
◾️土屋秋恆
18歳で水墨画を始め、2年という異例の早さで師範に。古典技法への高い評価と、現代的な画材を古典技法と合わせて描くその独自のスタイルに絶大な支持が集まるアーティストさんです。